続・風のうしろに風はない
佐々宝砂

この文章は、みつべえさんの詩作「凪の日」に寄せたいとうさんの批評「何故詩なんか書いてしまうんだろう」に触発されて書いたもの、というよりは、ずばり反論として書いたものです。私の「凪の日」批評そのものは、「風のうしろに風はない」というタイトルで書きました。

「凪の日」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=11175

「何故詩なんか書いてしまうんだろう」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=11179

「風のうしろに風はない」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=11487

私は、「何故詩なんか書いてしまうんだろう」という文章に対して、どうしても二種類の文章で反論せねばならないと感じた。ひとつめは「凪の日」という詩に対する解釈の違いとしての異論であり、そちらは「風のうしろに風はない」としてすでに書いたが、別段激烈な反論ではない。「凪の日」にふさわしくまあ穏やかな異論・異見である。いとうさんの文章の中で賛同できる部分には「卓見」という言い方すらしている。詩を書く人間として、いとうさんの意見「詩人なんて、罪や業のかたまりでできている」にはうなずけないでもないのだ。しかし、詩を書く前に詩を読む人間であった私は、いとうさんの文章のあちこちに強い反撥を感じる。まず冒頭からして、そうだ。

>詩なんか書かずに生きていられるほうが幸せだと真剣に思っている。そういう意味では詩人なんて人種はいないほうが世の中のためになるのだ。誰しも、こんな業を背負う必要はまったくない。(「何故詩なんか書いてしまうんだろう」より)

「詩なんか書かずに生きていられるほうが幸せだ」というのは、まあ、真実かもしれない。そこんとこはいいとしよう。しかし問題は次だ。「そういう意味では詩人なんて人種はいないほうが世の中のためになるのだ。」という文章は、完璧なまでに、読者というものの存在を忘却している。あるいは詩人以外のすべての人間を無視している。詩を読む、ということを必要とする人間がいることを忘れている。詩を書くということはなるほどつらいことかもしれないし、業深いことかもしれない、しかし、ひとつの詩がひとりの人を救うことはあるのだということ、詩にはそのような力があるのだということまでわすれてはいけない。詩人は常にこの重大な事実、詩の持つ力を忘れてはいけないはずだ。だのに、いとうさんはここではそれほどまでに重大なことを忘れている。

「誰しも、こんな業を背負う必要はまったくない」だと。そんなことがあるものか、「詩が書ける」ならば人は詩を書かねばならない。歌が歌えるならば歌わねばならない。踊れるならば踊らねばならない。描けるならば描けかねばならない。業はみんながみんな背負っているものであって、いとうさんだって「そしてかなしみの石版は、誰しもが宿している」と書いているではないか。なにも詩だけが特別なのではない。いとうさんはまるで、詩と詩人を神聖視しているかのようだ。また、「月が昇る」というような自然現象と、人が何かを表現するという行為を同一視してみせるいとうさん文章、ひとつのレトリックとしては面白いけれども、理性的に考えてみたらおかしなことでしかない。月に意志はない、しかし人には意志がある。私たちは月ではない。花ではない。自然の理のままに生きることなど、どんなことをしても私たちにはできない。

私たちは、ただ在るだけで人工的な存在だ。たとえぱ新井素子が『…絶句』の中で書いたように。たいした爪も牙もない、だから石をとがらせてナイフをつくった。たいした力もない、だから落とし穴で獣をしとめた。早く走れない。馬に乗った。乗り物をつくった。生肉が腐らないようとっておきたい。氷室や冷蔵庫をつくった。遠くに言葉を伝えたい。電話をつくった。インターネットでつながった。いまある状況に満足できないとき、人は新しいなにかをつくる。言葉もそのひとつだ。詩もそうだ。

いま私たちのおかれたこの状況に満足できないものを感じ、言葉を発することしかできないとき、詩人は詩をつくる。詩は単に言葉であって、早く走るための道具にもならないし、もちろん冷蔵庫にもならん。だが詩は強い力を持っている。詩人一人の個人的な羞恥やかなしみをいっとき消すだけの力しか持たないこともあれば、一つの国を誤った方向に動かすほどの力を持つこともある。一人の無実の人を殺したり、一人の瀕死の病人を生かしたりもする。私は救われた一人だが、何の詩に救われたかは書かない。それは、いとうさんのようなタイプの詩人をどっぷりと癒しにひきずりこむような詩では、なかった。


作者としての私は、自分自身の詩にふりまわされたことがない。なんて出来が悪いんだああクソと思うことはしょっちゅうだけれど、何度も書き直して結局気に入らなくて破棄することもしょっちゅうだけれど、別にふりまわされてはいない。気の毒に、私の詩ときたら、私にふりまわされっぱなしなのである。もっといい詩人のもとに生まれたらよかったのにねえ、こんなへぼ詩人のとこに使わされて気の毒に、だなんて冗談ぽく思ってみることさえある。

読者としての私は、私以外の人の詩によってよくふりまわされる。「うわーこんなにあるよーレスしなくちゃー」というのが手始めで、「こんな重い思い受けとめられっか」とか「こんなかなしみの垂れ流しみたいなもんよこすな」とかそんなこと内心で呟きながら、私はせっせと詩を読む。なるほどそんなとき詩は業だねえと思わないでも、ない。


いとうさんは、せめて、「何故詩なんか書いてしまうんだろう」という文章の主語を「私たち」から「私」に変えるべきだ。世の中いろんな詩人がいるのだから。


散文(批評随筆小説等) 続・風のうしろに風はない Copyright 佐々宝砂 2004-05-01 16:34:32
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