空飛ぶ機械のための習作
はらだまさる




まず、始めにこれを読んでくれるあなたが自分のこころに、またこれらの言葉に素直であることを願う。




「冷静にじっくり考えれば解ることなのだけど全ての現象、原因は自分が作り出している。」

 自分がイライラしているとき、そのイライラした感情を作り出しているのは自分である。他人に怒りを感じているとき、その感情を生み出しているのは、自分である。全てに絶望しているのは、自分である。全てが自分の責任である。
 その瞬間に世界を見廻して、同じこの世界に生きていながら同じように繊細に、傷つき悩み苦しんでいるたくさんの人達が、強く生きている姿をみて、自分は駄目だと、心の中で繰り返し呟く。最悪の悪循環。でも止められないし、止める気もない。自分が悪意を育んでいる姿に嘔吐するだけだ。

「戦争を繰り返す世界が悪い、地球を汚し続ける人間が悪い、格差社会が悪い、犯罪が悪い、愛情のない両親が悪い、世界のバランスを考えない人間が悪い、自分勝手な奴らが悪い、裏切る友達が悪い、嘘をつく兄弟が悪い、人を平気で騙す無神経が悪い、傷つける人が悪い、いじめが悪い、その全部が罷り通るこの社会が悪い、金儲けばかり考える大人が悪い、そんな国を作った政治家が悪い、自分の事を棚に上げて自由を貪るこの精神が悪い、人を妬むのが悪い、人間中心主義が悪い、世界中のどこを見廻しても汚れた汚い世界しか見えないし、こんな世界にこれからも我慢して生きていくのが辛い、いっそのこと死んでしまいたい、誰か殺してください、僕を殺してください、そうすれば僕は自分に自信をもって、美しいままで死んでいける。ああ、死のう。誰かが僕を殺せば犯罪になるから、僕が僕を殺そう。だけど、それも恐くて出来ない。誰か僕を殺してくれ、これって戦争を肯定してるようなもんだ。そうか、人類が多過ぎて、地球が苦しんでいるんだから、僕なんか死んじゃえばいいんだ。もっとたくさんの人達が死んじゃえばいいんだ。ああ、だけどそんなことを考える自分が悪いんだ。僕にはそんな勇気もない、どうしようもない人間だ。僕なんか生きてるだけで世界に迷惑をかけているゴミだ、人間というゴミだ。生きることも死ぬことも出来ない無能だ、恐い、恐い、生きているのが恐い。眼を閉じるのが恐い。死にたい、死ねない。気が狂いそうだ。何とかこの僕を眠らせてください。眠れない。眼を開けるのが恐い、このまま僕を永遠に眠らせてください。僕は純粋でありたい、美しくありたいんだ。」



 もし自分の大切な家族や友達や恋人に、こんな風に苦しんでいる少年がいたらどうするだろう。これを読んでいるあなたは、そんなことをじっくりと考えてみたことがあるだろうか。それとも、もしあなたがこのような思考を抱いたとき、あなたはあなた自身に対して何がしてあげられるのだろうか。
 この少年の生きる世界では、この思考の全てが正しい。どこをどう考えてもここに行き着いてしまう。何も間違ってはいないだろう。それは真実だ。そして親兄弟はもとより、友人、知人から自殺はいけない、というような「もっともなこと」を言われると、「それは正論でわかってるけど、世界はそれ以上に複雑なんだ」という具合に反発してしまう。そして「誰も僕の苦しみなんてわかってくれない、わかるわけがないんだ」という孤独感から自暴自棄になる場合が多い。そういった自虐的な行為は周囲の人達を悲しませるだけではなく、不幸の連鎖を招く。もう一度言おう、自虐的な行為は、愛する人(もしかすると自分を唯一愛してくれる人)を悲しませるだけに留まらず、苦しめることになる。戦争を繰り返す世界は悪い。それと同じように自虐的な自分も悪い。まず、その事をしっかりと理解しなければいけない。そして大抵の心ない人も、心ある人もあなたの苦しみを理解出来ず、あなたは凍てつくような孤独感に苛まれるだろう。世界中の全てがあなたの敵に見えてくるのも仕方がない。何故ならあなたは絶望しているからだ。
 こうしなさい、ああしなさいと言われると支配されるような感覚に陥るために、極度に反発してしまう。支配を怖れるのは人間の構造上、仕方がない。支配を怖れ、支配されないように、咄嗟に(それこそ反射的に)自分が今まで心にも思っていなかった思考で、相手に反論することもあるだろう。そして、それが然も自分本来の考え方であるような錯覚を自分に与え、自分で自分を欺いているのだ。歪な自己正当化である。それが本当の支配なのかどうかは全く別なのだけれど、支配される危険に対する自己防衛の手段としての自己正当化が反射的に働くのだ。


 と、ここまでの、のっぺりとした文章を読んで何かしらの反応が、敏感なあなたの内部で起こっているのではないだろうか。それはこれらの文章によってあなたは、あなたの内部に存在するボタンを押されたからである。あなたは、ボタンを押されて反応する機械なのだ。そのように生産され、長い年月をかけて複雑にプログラミングされた機械なのだ。


自 己 正 当 化/他 者 否 定
勝     利/負 け な い こ と
支 配 する こと/支 配されないこと
正  し  い/悪 い


 自分が誰かに対してイライラして、怒り、悲しみ、苦しみ、恨み、批判し、憎んでいるとき、上記の精神的なProfit(利益)である四系統、八種(以下、「四・八の利」とする)のどれかを無意識的に、または機械的に行って、ガッポガッポと儲けているのではないのだろうか。そしてこれらは、あなたという機械が大好物なものである。それを糧にして生きている機械も多いんじゃないかと思われる。成人病や肥満に直結するような添加物たっぷりのジャンク・フードを貪っているようにもみえる。そのとき、いや、それ以前からずっとあなたはイライラ機械であり、怒り機械であり、悲しみ機械であり、苦しみ機械であり、恨み機械であり、憎しみ機械であり、批判機械なのではないだろうか。「悲しみは罪である」と謂ったのは誰だったか。

 では、もう一度確認しよう、機械とは何か。あなたには幾つかの「ボタン」がある。日本人なら「ツボ」といえば理解しやすいのではないのだろうか。あなたには笑いの「ツボ」(=ボタン)と云われるものがある。それは、自分を深く知れば知るほど、他人には理解し難いツボ=ボタンであることに気がつくはずだ。自分の見聞したこと、歴史や生きてきた時代背景、出会った人などと深く関わりのあるもので、あなたがこの世界に生まれてから色々と、とてもナイーヴで個人的な体験をずっと繰り返して生きてきた結果、その過程で世界によって、社会によって無意識に造り上げられた、否、プログラミングされたボタン=ツボが、十人十色それぞれに幾つかずつ、存在している。笑いのツボがあるように、怒りのツボ、イライラのツボ、悲しみのツボ、苦しみのツボなど、それらのツボ=ボタンが何かの拍子で誰かに押されたら、あなたは笑い、怒り、イライラし、悲しみ、苦しみ、批判したい機械なのである。それらの感情は、他者と共通の反応でありながら、ほとんどが互いに理解出来ないものであるだろう。あなたにも経験があると思うが、彼、または彼女の怒りや悲しみの真実を、本当の意味であなたに理解が出来るだろうか。それは否、である。何故なら違う過去を生きているからである。何故なら誰しもが共通の過去を生きていないからである。正確な理解などあり得ない。誰しもがどうしようもない断絶のうえで、孤独を生きているのだ。


 では、ここでまず「客観する」ということを考えてみる。
 いま、これを読んでいるあなた自身が「欲しくないのに持っている不満」というものを想像して欲しい。例えば「口うるさい上司がいる」とか「浮気を繰り返す彼」とか、何でもいいのだけれど、そのことであなたが今現在、どのような状態(=機械)であるのか。それを把握することが、客観の入り口である。イライラしている機械なのか、怒っている機械なのか、悲しんでいる機械なのか。
 あなたはその機械で在り続けるために、「四・八の利」のどれかをガッポリ儲けているだろう。イライラし続けたくなどないくせに、イライラしている。誰にでも経験のあることだと思うけれど、イライラしたり、怒ったり、悲しんだり、恨んだりしてる時間のもったいなさったらないだろう。
 なぜ、もったいないのか。その悲しんでる時間がまずもったいない。ぼくは最近、夢についてよく考えるのだけれど、例えば単純な話、十年とかのスパンでその悲しんだり、イライラして無駄に過ごす時間を想像してみて欲しい。何も手に付かず、そのことばかり考えている自分がいるのではないだろうか。気分も冴えず、食欲も睡眠欲もなく、他人が妬ましく感じるのではないだろうか。もし、その悲しんだり、苦しんだり、憎んだりしている時間を自分がやりたいことのために健全に楽しく、周囲に不安を与えずに、また周囲を喜ばせてその時間を有意義に使えたら、どれだけ自分の可能性が広がるか、どれだけ自分の夢に近付くかということを考えたことがあるだろうか。
 もし仮に今、ぼくが突然不意に何の理由もなく無差別に誰かに殺されたとしよう。そうなるとぼくの妻をはじめ家族や友達は、その相手を恨むだろうと思う。しかし、ぼくはその相手を恨んで生きて欲しくはないと思う。そんなことのために苦しんで、人生を台無しにして欲しくはない。とても馬鹿げたことだ。もし逆にぼくの妻がそうされたら、ぼくはどうするだろうか。妻や妻の家族には申し訳ないが、ぼくはその相手を許す努力を死ぬ気でするつもりでいる。実際は、そうなってみなきゃわからないけれど、ぼくはそうするつもりだ。妻が殺されて憎む理由の末端には、ぼくが妻を愛したという責任がある。誰も憎みたくないのなら、誰も愛してはいけないのかも知れない。そういう世界に今現在、この瞬間もぼくらは生かされている。
 そして、恨み、悲しみ、イライラし、怒り、妬みが作動している機械であることによって失っているものは、時間や可能性だけではない。更にはもっと大切なものを失っていることに、気が付かなければいけない。
 それは何か。本当に多くの大切なものを失っているのだ。

 例えば身近な例として、あなたが「口うるさい誰か(上司、親父etc)」にイライラしているとする。その人に対して、あなたはきっとこんな眼鏡をかけているはずだ。
 それは「口うるさい親父」という眼鏡である。この眼鏡(フィルター)を通してその人を見るので、その人があなたに対して何を言おうが、全てが口うるさく聴こえてしまうのだ。その眼鏡を、その汚れたフィルターを外してみたらどうだろうか。そこには、ただのひとりの孤独な人間がたっているだけだ。このどうしようもない世界に、社会に揉まれて、あなたと同じようにプログラミングされて、あなたとは全く違う人生を必死に生き残ってきたひとりの人間が、否、その壊れかけた古めかしい汚れた機械が作動しているだけだ。あなたという機械の行動に、いちいち反応しながら、怒り、悲しみ、イライラし、悲しんで言葉を発している機械だ。あなたはその機械が汚れてしまった理由を知らない。正確に作動しない理由を知らない。その機械について知ろうともしない。ただ、その機械によって生産され、生かされ、守られてきたのがあなた、だ。あなたが生きている限り、あなた自身を否定できないように、あなたにもその汚れて誤作動を起こす古めかしい機械を否定することは出来ない。だのに、あなたはその機械の反応を否定し、その機械そのものの存在を否定しようとして、その機械の最も危険なボタンを押してしまうのだ。
 しかし、では何故このような文章を描いているのか。機械である以上、その反応をリセットするボタンも存在するのだ。それを押す自由と意思が、あなたそのものだ。
 それは、許しのボタンであり、継続する不満をリセットするボタンだ。健全に活動し、人生を深く楽しみ、生産を続けるための、壊れないためのボタンだ。
 誤解しないで欲しいのだが、それは人生のリセットではない。感情のリセットだ。破壊するのではなく、再起動するのだ。そしてその行為、作動は何も難しいことではない。とても簡単なことだ。少しの勇気があれば、それで十分なのだ。読んで理解するだけはなく、行動してみて初めて気が付くことがある。「許す」というのも勇気だ。自分自身を表現するのもまた、勇気だ。

 ボタンを押されて反応してしまうのは仕方がない。あなたは機械だから。しかしあなたが、本当は「欲しくないのに持っている不満」の麻薬的な感情を、そのエネルギーを持ち続けるために失っているものとは何だろう。私が正しい、私は悪くない、俺は支配されない、俺が支配してやる、僕の勝ちだ、僕は負けることがない、あなたは間違っている、という思いを抱き、その対象となる機械との関係において失ってしまったものとは、何だろか。


 それは、愛であり、親しみであり、充実感であり、満足感であり、健康感であり、バイタリティーであり、自己表現のうちの「どれか」を失っているのではないのだろうか。


 いま、これを読んでいるあなたは何を感じ、どのような反応をしているのだろうか。「はらだまさる」という機械に対する苛立ちか、怒りなのか、批判なのか、胡散臭さなのか、馬鹿らしいとニヤケているのか、そんなコトバに騙されないぞと粗を探しているのか、スッキリしているのか、よくわからないのか、悩みが増えたのか、何か恐れを感じているのか、関わりたくないと感じているのか、悩みを打ち明けたいのか、生理的に受け付けないのか、懺悔したいのか、好きなのか、嫌いなのか、これを読んで下さっている人それぞれが、それぞれの反応をしていることだろう。しかし、生まれながらにプログラミングされただけの、どこにでもあるような、しかしどこにもないたったひとつの「はらだまさる」という機械に対して、下らない感情を抱くよりも、その感情に踊らされるよりも、そのコトバを信じるよりも、そこから何かを選択し、あなたの人生に少しでも活用すればいいだけの話なのではないのだろうか。

 もう一度最後に、自分にいい聞かせる気持ちで、この言葉を繰り返す。
「冷静にじっくり考えれば解ることなのだけど全ての現象、原因は自分が作り出している。」
 あらゆる不満は、自分が生み出している現象に過ぎない。自分が変わればその不満は、消滅するのだ。世界を変えるのではなく、自分が変わるのだ。すると世界は変わり始めるだろう。



 と云う訳で、こんな言葉じゃ伝えたいことも伝えられないので、ここからはもっと崩れた言葉で描くけど、許してね。

 ぼくは、今までの人生でニ度「宗教的な体験」(ぼくが勝手に名づけた)というものをしたことがあって、そのときのことを何度も言葉にしようと試みたのですが、どうしても嘘くさくて、陳腐になってしまうので、なかなか人にも伝えられないでいます。しかもそんなことを描いても、「俺は人とは少し違うんだぜ」というように、自分を特別な存在に見せようとするようにしか取られかねない事を畏れるあまり、公言(以前からぼくを知ってて下さる人の中には、未完成ながら某ブログにしたためていた自伝的な小説を読んで頂いた稀有な方も居られるかも知れませんが、今はアドレス未公開)することを躊躇していました。こんなぼくに対して一番理解がありそうな嫁ですら信じてくれないことですから、誰も信じてくれないかも知れないけど(苦笑)。
 だけど表現することを畏れてたら何も描けなくなるので、この際どう思われたっていいぜ、と開き直ってこの場に放り投げてみたいと思います。

 そのうちのひとつはこんな感じの体験でした。

 ある日、信号待ちの本当に優しい霧雨の中で、突然、普通に聴こえていた近くの色んな種類の音(自動車のエンジン音や人の話し声)が物凄く遠くで聴こえるような感覚に陥って、ぼくと云う人間を浮き彫りにするような静寂に包まれたかと思うと、最初は物理的に近い人達の心の中が、手に取るように把握できる感覚に襲われて、耳を抑えても聴こえてくるその声達は、次第にぼくの視界中の生物の声だけに留まらず、その範疇を超え、眼に見えない世界までもの強烈な言葉の真っ白な光の雨となって、一気にぼくのこころに降り注いだのですが、そのあまりの凄まじさに、ぼくの身体はどう反応していいのかわからないといったようにガタガタと振るえ、次瞬間、歩行者信号が青に変わって、ぼくは現実の世界に瞬時に帰ってきて歩き出したのですが、横断歩道の中央で訳もわからず涙が止め処なく溢れ出し、ぼくは大声をあげて泣いたかと思うと、次の瞬間には記憶がなくなっていて、気が付いたら横断歩道を渡ったところで気絶して倒れてた、というようなことがありました。

 だから何なんだ?何がいいたいの?単にクスリでもやってたんじゃねぇの?って思われそうですが、前日の夜から頭痛が酷くてあまり眠れずぼーっとしてたけど、変なクスリはやってませんでしたよ。その前後の記憶がないのは確かですけど。で、ぼくはそれ以来、友達でも誰でも面と向かって人と話していると、ぼくの発した言葉に対する反応その人のこころの中がみえる感覚に襲われて、これはマズイなぁと思ってしまって人と話すのが怖くなって、段々と人と接するのを避けるようになってしまい、最後は実家に帰って引き篭もりました。もう、家族であろうが友達であろうが人と話すのが怖くて怖くて、もう完全に俺は病気だ、と思って精神病院に通うようにしました。人のこころの中って、ぼくがそれまでに思っていたよりもとても醜くて汚いんだと、そのときにはじめて感じました。自分のことは棚にあげてですけど。あとから考えればそのときのぼくは、最悪に汚かったと思ってます。
 そんなこと言い出すと自虐になっちゃうんでこれ以上は自粛しますが、まぁ兎に角、精神病院に通って、そのときの先生の対応がすばらしかった。非人間かと思うくらい、すごく機械的でぼくの苦しみなんて経済活動の一部分だとでも云わんばかりのカウンセリングで、もうめちゃくちゃに腹が立って、こんなおっさんを肥やすためだけにイチイチ病院通ってるのが馬鹿らしくなって、自分でなんとかしようと思い、まず鈍くなる努力を(それは感度を調節するように)して、それから家族ともまぁ何とか普通に話せるように努力し、病院に通いながらも気合で働き出し、お金を貯めてインドに旅立ちました。(割愛)で、四カ月放浪して、兄の結婚を機に帰国して、働いて結婚して今に至る訳です。ああ、長かった。
 要は何がいいたいかと云うと、ぼくは機械に救われたんです。先生の機械的な対応と、ぼくをインドに連れて行ってくれて、更には日本に連れ戻してくれた機械文明と家族に救われたんです。弟がメールで兄の結婚を教えてくれなきゃ、ぼくは日本に帰らなかったと思います。そう云う意味も含めて、機械文明に一先ず感謝です。ぼくらが物心ついたときには、家にファミコンがあったんだもんね。
 人のこころの中がみえるというのも、別段、特別なことでも異常なことではなくて、自分を曝け出して全神経を集中し、感度を研ぎ澄ませば誰にだって出来ることなのだというのも、人間=機械だと考えれば全ての合点がいくのです。

 ぼくの中には「人間はすんごい精密な機械や」という思想は強くあって、たまに冗談交じりで友達にも話すんやけど、実際ぼくはリアル・サイボーグにかなり憧れがあります。最近は少しその熱もおさまってますけど、一時期はかなり本気やった(照)。
 『アンチ・オイデイプス』(ドゥルーズとガタリ)の言葉を借りたら二十世紀までの人間は、極端にゆうたら結局、戦争機械やったんやろなぁと思います。戦うための機械。戦うことをインプットされた機械。それはもう過ぎたことやし、今更どうしょうもない事実やけど、この二十一世紀に生きるぼくらが、ホンマの意味において自分達を機械なんや、って認識することに、ぼくは大きな可能性を見出しています。戦う機械を過去のものにしてしまわなアカンと思う訳です。
 機械に対する一般的(?かどうかはわからへんけど)な「冷たい」とか「冷酷」とか「無感情」とかのイメージじゃなくって、そのこころで優しさで、西洋なら愛でもって、東洋なら仁でもって、夢でもって、希望でもって、それらを動力にして、今まで、そして今現在においても複雑で抑えられないとされてきた、たくさんの名状し難い感情を自由にコントロール出来る自発的な機械なんや、という可能性です。魂は自分やけど、心や肉体は機械、みたいな。
 少し前に投稿した、拙詩『拡張子』でも描いたけど「人間の感情は拡張子に如かない」というような思考が、この時代には重要なんやないかなぁと思っています。それは人間の可能性として、です。戦ってしまう根源的な諸問題を、意志によって手放す装置として。
 おのれの感情に、生かされ殺されているのが今までの、そして今現在の人間です。もちろん、このような「人間機械論」にはまだまだ色々な問題を孕んでいるんやろうとは思います。『アンチ・オイディプス』なんかをみんながちゃんと読めれば解決する問題かもやけど、この世界にはそんな暇人ばかりじゃないからそれも問題な訳やけどね。あらゆる現象に機械的に反応するのを否定出来んのやったら、この瞬間にも世界のどこかで起こってるであろう殺人、その咄嗟の反応で人を殺してしまうのも機械的な反応のひとつやと考えられるし、それを機械の自己表現やとも受け止めなアカンでしょう。そしてそれを許してしまうことが、必ずしもいい事やとは誰にも云えんと思う。そやけど、一向におさまらん戦争や猟奇的な殺人事件、どうしようもない暴力なんかは、そういう風に受け止めて反応し、悲しみ、憎しみ、怒り、そして最終的には何らかの形で許し、リセットする以外に、ぼくらが健全に生きられる方法はないんとちゃうかなぁとも思います。
 根本的に全ての善悪や、正義というのはぼくらが決めたことでもなく、また決まられるものでもないことからわかるように、それらの二元論的な価値観の全てが、人間の歴史と社会のあり方によって刷り込まれ、それこそプログラムされたものでしかないから、ただ単にそれを否定するだけではなく、その現状をまず受け入れたうえでどう生きるべきか、ということに尽きる。機械であること、機械になることを、時代に要請されていると感じる感性、というのはあながち大きく的が外れていないように、ぼくには思えます。
 ぼくらは、ある単純な方法で何かに対する怒りを次の瞬間に忘れられます。忘れないことも出来ます。何かに対して、また誰かに対してイライラしたとしても、そのことに客観的に気が付いたら一秒で、そのイライラを手放すことが出来ます。ほんの少しのイライラする感情をいつまでも持ち続ける、というのはそれに伴う精神的苦痛や疲労感、人によっては食欲不振、睡眠不足、即ち健康感の喪失、周囲の人への八つ当たりとか、そのことで人間関係に不具合をきたし、果ては根深い人間不信、それら全てを持ち続ける悪循環を生きることに他ありません。その連続性に振り回されることが何を意味するか、賢明な人が考え想像力を働かせれば、すぐにわかることやと思います。深く深く考えれば、いまあなたが苦悩や絶望があるのなら何をどうすべきか、答えは自ずと見えてくるんちゃうかなぁと思います。ぼくらはいつだって何だって出来るんです。だから自虐と自己愛が、この世で一番やっかいな問題やと思います。
 あなたは機械です、ぼくは惜しげもなくこう言いたい。そしてぼくも機械だ。自分の肉体の外部で起こる現象は、ぼくらにはどうすることも出来ないけれど、自分の内部で起こる全ての現象は自分次第で、どのようにもコントロール出来るはずです。ぼくはこの文章を読んでいるあなたを信じている。全ては自己責任だ。あなたが今読んでいるこの文字は、機械の画面に映し出された単なる文字に如かない。人間の文字は、すでに機械の文字なんやと云う事です。
 あなたは将棋の駒のように、あなた自身を「歩」や「角」や「竜王」や「桂馬」や「王将」に分裂させ、その全てが自分であり、その場にあった対応をそれぞれの自分にさせていたけれど、それらを客観して操作しているのもあなた自身なのだ。複雑に感じることも丁寧に考えればとてもシンプルなことだ。世の中には面倒臭がることで無駄にしてしまうことが、山ほどある。ときとして無駄も大事だけれど、無駄ばかりでは仕方がない。あなたの人生が、本当に深く豊かであって欲しいとぼくは思っている。この文章ははっきり云ってまとまり切っていないことが、自分でもわかる。喩えがおかしいところもあるやろう。漢字間違いもあるかも知れん。差別的に感じるところもあるやも知れん。文章が猥雑で美しさのかけらも、すばらしい比喩もないやろう。そやけど今更推敲を繰り返して綺麗な文章に纏めようとも思わへん。これが今のぼくの精一杯やから。許してやってください。現時点で無学で馬鹿なのも認める。だけどぼくはあなたに人生を楽しんで死を死ぬまで、精一杯生きて欲しい。あなたには何だって出来る。本当は人の気持ちだって、未来だって誰にも解からないし、その分、可能性も無限に広がっている。人の気持ちも未来もわかるようにあるかも知れん。そんなこと誰にもわからん。ただ、これだけをあなたに伝えたい。


 これからの未来も、世界もあんた次第や。


 「空を飛びたい。」と誰かが考えたとする。今のこの世の中において、ほとんどの人が「馬鹿じゃねえの、飛べるわけないだろう」と考えるんやろうなぁと思う。確かにそれは正論で、今を生きているぼくらが自分の肉体だけで、空を飛ぶことは不可能なんかも知れへん。そやけど、地球の歴史を考えてみたら、ぼくら全ての地球上の生物には「進化する」という可能性が残されてる訳でしょ。それは本当に死に物狂いの、多くの犠牲のうえでの進化やったんやろうなぁと思います。百年後の劇的な進化は無理かも知れへんけど、サイボーグという可能性でなら、空を飛べるかも知れん。肉体も一万年後には進化して、翼が生えているかも知れん。そんなのは誰にもわからんのちゃうかなぁと思います。もし未来に地球上が水没しても、この大空でぼくらの子孫達は自由に空を飛んで、今のぼくらと変わらず、本を読んで、恋をして必死に生きているかも知れんもんね。
 今を生きるぼくらが、絵空事だと思ってはじめから諦めきってしまってることを、はなっから出来ないと諦めていることを真剣に、必死に想い、強く想い、願い、努力し、祈り続ければぼくらの肉体も、そして世界も変わるんちゃうやろかと。「空を飛ぶ」ってのはあくまでも例え話で、別に絶対空を飛ばんでもええけど、ぼくら人間が本当に、強く進化を望めば、きっと空を飛べるようになるやろうと思っています。



 ホンマに最後の方は、どうしょうもなく汚い文章やったけど、ここまで読んでくれたあなたに、こころの底から感謝します。ぼくの稚拙で未熟であるが故の不明瞭な言説による齟齬や、明らかなぼくの誤解、また不快に感じる文章などあれば、ご指摘して頂ければうれしく思います。今後も、僕自身もっと学んで加筆修正を繰り返していきたいと考えています。そして、ほんの少しでいいから、あなたの人生に少しでも役立つ何かをこの文章から持って帰ってもらえればと思っています。本当に、ありがとうございました。









散文(批評随筆小説等) 空飛ぶ機械のための習作 Copyright はらだまさる 2007-03-25 17:46:59
notebook Home 戻る  過去 未来