この朝、静観の内から /ひだかたけし
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 田中教平 
- 花野誉 
- atsuchan69 
- 月乃 猫 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 菊西 夕座
海の描写のあとに
>眩暈する内に裸木の群れ
>仄か赤み浮き立たせ閑か佇み
があって少しわかりずらかったのですが、裸木にうっすらと赤みがさすというのは、葉をおとした木々の春の芽吹きを予感させているということなのでしょう。

そうするとこの詩はぐっと深みを増し、いわば冬から目覚めの春へ開花を予感させるわけですが、しかしそれは、「私」という小さな個の喪失でもあり、もっと大いなる存在へと結びついていく意思の表明でもある。ちょうど「葉」が「大樹」へと覚醒するような感覚でしょうか。

自己を失ってからが本番というところに、作者こだわりの大いなる気概が感じられるわけですが、「こっとん」とやわらかに終結(実はこれが永遠への始動でもあるわけですが)へと接続していくあたりが、いっさいの力みをふりほどいている証であり、この「大いなる気概」と「無私なる力みのなさ」が混然一体となろうとしているところに、いつもながら好感を抱いてしまいます。気概は尽きないエネルギーを表し、力みのなさはエーテルの軽やかさを表しているからだと思います。

ところで「こっとん」は奈良地方の方言で「私の家」を表すとありましたが、「こっとん」=「永久なる持続」=「私の家」とみたとき、その魂の所在の深さがいかに深いものであるか、その一端がうかがいしれるようです。

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