若者よ、書を捨て東京には行くな/足立らどみ
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 田中宏輔 
- りつ 
- 洗貝新 

ジッドに寺山、そしてアベ穣二を結びつけるとは通俗的に捉えてもナンセンスとは思えない吉原界隈を貪り尽くす洒脱がある。
あなた、どなたでしょうかね。デスクワークに長けていそうなベテランで、年頃からいえば(旧名)織田さんとかに見えてしまうが、まさか熊の詩は書きそうにもないですよね。

- 室町 礼 
足立らどみ様がAIをこれからも使っていくのなら
ひとつ注意しなければならないことがあるように
わたし個人には思えます。それは、もともとAI
は質問者に対して最大限の称賛で迎えるように
プログラムされているのです。笑
だから多分足立さまがAIに質問すればどんな質問
でも必ず。
「なるほど鋭いご指摘です」
「素晴らしい観点ですね」
「意表をついたご質問です」
などといった、冒頭にまず称賛絶賛のことばを
もってくるのです。これは質問する足立さまだ
けじゃなく、だれがどんな平凡な質問や少々
間違った質問をしてもまずその質問者を賛美す
るようにプログラミングされています。
わたしは数回使ってみてそのことに気づき、
なるほどなあと想いました。商売なんですね、
AIも。
わたしの詩の感想や批評に欠けていたのはこれだ、
と気付きました。
罵倒するにせよ、否定するにせよまず、最初に
投稿者を絶大賛美称賛してからでなくてはまずい。
見習おうと思ったのですが、まさか足立さまは
AIの称賛をそのまま真に受けてはいらっしゃらない
でしょうね?笑
お気をつけて下さい。でわ。
- atsuchan69 

寺山修司の一句が、
まるで巴里の街角で配られる小冊子の挑発的なスローガンのように、
受け取る者の器量によって毒にも薬にも変わるのだと痛感させられる。

足立らどみ氏の文章は、
軽やかな放言の仮面をかぶりながら、実際には非常に冷徹な観察を宿している。

ジッドを豚に、安部譲二を寓話の異形に仕立てるその筆致は、
サロンで交わされる辛辣な冗談を思わせる。
笑いの下には、凡庸さに対する苛立ちが隠れているのだ。

それに応じる inkweaver の言葉は、
より静謐で、分析的である。
若者の浮遊と詩壇の閉塞――この二つの極端を同じ地平に並べ、
そこから「言葉が誤解される宿命」を透視する。
まるでサルトルがカフェ・ド・フロールで語るときのように、
平凡な日常の背後にある宿命を抽象化してみせる。

そして最後に置かれた「モルト」と「水」の比喩――これはきわめてフランス的である。

閉鎖的に熟成された酒が、
限られた者の舌を喜ばせるだけなのに対し、
無色透明の水は万人を支える。文学的な酔いの陶酔と、
日々の糧としての平凡さ。
その対比のなかに、表現と生活の真の価値が浮かび上がる。

総じて、このテキストは、
挑発と省察、皮肉と誠実さが交互に呼吸する一篇である。
そこに漂うのは、「町へ出よ」と呼びかける声の反響ではなく、
むしろ「本も町も、その両方を抱えよ」という二重奏のような響きなのだ。


- 降墨睨白島/腰国改修 
>だから、寺山的メッセージを現代に言い直すなら、**「本を読んで、町にも出ろ。どちらか片方で満足するな」**みたいな二重性が必要なのかもしれません。

激しく同意。昔、書を捨てるな町へ出よみたいなこと書いた記憶あります。
 
作者より:
アラ氏へ
枠を壊してまで受け入れる必要はないのでアラ氏の
今までのたくさんの経験に近いひとに摺り寄せれば
withAIの近未来も受け入れているのでしょうけど
行動しながらその先を見据えているだけのぼくには
どうしても未来は無限に感じてしまうのですよ

室町さん
AIというよりかは穏便に会話をする良くある術で
AIとの擬似会話は基本的に斜め読みで流している
から彼/彼女はそういうことを書いていたのですね
介護の現場ではすでに導入が始まっているAI人形。
悲しすぎるスピルバーグのA.I.の世界観はこの国では
厚生労働省も進めているわけだしありなのかも

---2025/09/11 21:15追記---

白島さん
寺山修司が凄すぎたから「書を捨てるな町へ出よ」が
よく考えたら当たり前のことを言っていてもパンチが
聞くのでしょうね。フレーズつてとても不思議ですね

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