最愛の孤独の中で/由比良 倖
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 洗貝新 

文節の塊で日記のように語られていく。
この独白は夜の暗い闇の世界を深遠の中に閉じ込めて僕をノイズさせる。
心拍音を信号に換えた静かなバイブレーションだ。
   深く呼吸する。
希望はあるのだろうか。
快晴で始まる一日には読みたくもない詩ですが、これはあなたのスタイル。
詩は一人夜の静けさの中で読むものでもある。だからこそ、ってことを付け加えて抽象文を終えますが、
あなたのお名前を振り返れば現代詩フォーラムには長く在籍しておられて、ちょっと驚きました。
よければ、言葉を詩集に掲載させてみませんか?
                  気が向けば、です。




---2025/08/12 06:47追記---
- 室町 礼 
- 花野誉 
- ryinx 
 
作者より:
>洗貝新さん

本当に、本当に、ありがとうございます。
僕は2007年から現代詩フォーラムに詩を投稿していたのですが、
2012年に絶望して、それまでに書いたものを全部消去してしまったんです。
詩自体は2000年頃から書いていて、しばらくは外部のサイトに投稿していました。
詩を中心とした、言葉を書くことが人生(生きること)だと、心底思えた時期があったのですが、
本当に長いこと、書くことに何の喜びも感じられずにいました。

独白になるのですが、2011年の半ばから、僕は長いこと鬱状態に陥ったままでした。
言葉に対しての新鮮な感動を失ってしまって、言葉が大嫌いな時期が十数年も続きました。
言葉も、それから大好きだった音楽も、何もかもが、ただひたすら怖かったです。
それ以前の僕は言葉と音楽が死ぬほど好きだったので、それらが楽しいと思えなかった十数年間は、
朝から晩まで絶え間なく、もはや、僕も含めた何もかもが死んでしまったような気持ちで、
自殺未遂を繰り返しながら、衰弱し、馬齢を重ねるだけの生活を送ってきました。
その期間の記憶は殆ど無くて、その間に書いたものにもまるで愛着を持っていません。
書きはしたけれども、そこに僕の心は何ひとつ込められていないからです。

言葉には自他を嫌な気にさせる雑念しか無いと感じていました。
書けない、言葉が怖い、言葉なんか要らない、ということを言葉で書き続けていたように思います。
「書けた」という実感を、14年間、一度も得られていません。

それでも、やっぱり僕は言葉から離れられませんでした。
言葉が嫌い、嫌い、嫌い、と言いながら、やっぱり言葉が好きだったのだと思います。
そして最近、やっと回復の兆しが見え始めてきました。大切な人に出会ったからです。
鬱が急速に良くなってきています。

先のことはどうなるか分からないのですが、
また、言葉(や音楽)を、何の衒いも無く「大好きだ」と言えるときが来るかもしれません。
今もう既に、「大好きだ」とは言えなくとも、「いいな」とは感じられるようになってきています。

洗貝さんは、いつも僕に勇気を与えてくれます。
暗いながらも書き続けてきたのには、洗貝さんが励ましてくれたことも大きいです。
僕はペシミスティック(悲観的)ではあったかもしれませんが、ニヒリスト(厭世主義者)ではなかったと思います。
人生を無意味だとは認めたくなかったです。どこかで希望を感じていました。
これからは、今までの自分の悲観主義には拘らずに書けるような気がしています。

繰り返し、ありがとうございます。僕は生きて、書き続けますね。
洗貝さんにも、心身の健康に気をつけて、どうか新鮮な心を大事にしていて欲しいです。

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