去るもの追わず/鏡文志
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 室町 礼 
>出てこないから、追う。これを、痴呆という。

今のわたしがこれですね。
作家とか政治家の名前が出てこない。
まあ、あまり読まないせいだとしても
痴呆がひどくなっています。

---2024/11/17 04:55追記---
- アラガイs 

詩とは思想であり哲学でもあり理性でもありもちろん文学でもあるわけですが、それだけじゃない。言葉として伝えるという目的の本質も含まれてくる。去るものは追わず。もうわたしも痴呆の一人ですよ。まったく忘れて言葉が出てこない。そのつど掘り返しては調べています。脳の機能が敏感に働かないのでしょうね。カラダと一緒です。歳を重ねるとはそういうことでもある。鏡さん、ごもっともだとは思うが僕は逆説も有ると理解しています。 つまり追うからこそ詩人(ヌエボ)という者たちも存在できている。流行も何れ淘汰されていく。追うが追うまいが、いいものは必然的に残る。流行とはそういうものだと思います。


---2024/11/17 06:13追記---
- atsuchan69 
 
作者より:
イイネお礼:

artschan69様
アラガイs様
室町礼様

いつもイイネ! ありがとうございます。



コメント返信:

室町礼様 

こんばんは。
今日は管理されている身でありながら車のドライブに行ってきました。
地元の色々なところ巡ったのですが、視覚的に新しい風景を見ないと脳が凝り固まりをしてしまいます。
言葉も同じですね。同じ本。良書を聖典のように何度も何度も読み直すのもいいし、新しい本と出会うのもいい。自分は文学では太宰治などを読んできましたが、ああいうものは何度読んでもよくできた落語のようでいいものだと思います。
夜のお仕事などやっておられるようですが、活字に書かれているような文化的な言葉より、社交的な言葉を多く求められる世界に日頃身を置きあくせくしていると、文化的なボケも深まっていくのか? などと思ったりしますが。かといって生活を疎かには出来ない。芸術に身を置くとか投じるというのは孤独に身を置くようなもので、一般的な人たちと上手くやりながら同時並行でそう言ったものに歳をとっても触れ続けるのはどうなんでしょうか?


アラガイs様

こんばんは。
室町さんもそうですが、ボケたと言いながら活字をパソコンで打ち込むとはっきりしたものが書けるものなのでしょうか? 直に話してみるとまた違うのかな?


僕もGLAYとか、ラルクアンシェルとか新しいもの流行り物を追っていた時期がありましたが、慣れてくると好みも出来て古典に目覚めたり理解が深まり、固まってくると思うのです。追っているうちはまだ未熟かなという思いを書きました。


言葉も仕事と同じで、慣れていく内に追わなくても自然に入ってくる。そのエンジンが切れるとしたらそれが、老いなのかも知れませんね。

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