手遅れの手前/ホロウ・シカエルボク
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- レタス 
- アラガイs 

世界を考えるのがインテリジェンスならば実際世界を形作るのは労働者たちなんだ。夢見る乙女心よ。大河ドラマまでもが真似をすることないじゃないか。源氏物語?大河三傑集?ざーけるんじゃねえよ。といいたい。逝き倒れた女除虫菊奴隷乞食のドラマでもやりやがれってんだ。
- おぼろん 
色々と読ませていただいている段階なのですが、まずGoo blogに書かれていた「実を言うと、僕が詩を書き始めたのは、二十代の前半に狂ったように書いていた小説のようなものが書けなくなったからだった。」という述懐を、再考してみるものです。当初、ホロウ・シカエルボクさんの書かれた詩は、「言葉が引っ張る詩」であり、現在のホロウ・シカエルボクさんの詩は、「詩が引っ張る言葉」である、と感じています。てんで的外れであったら、ご容赦・ご指摘くださいね。わたしの乏しい感受性が、ホロウ・シカエルボクさんの表現に迎合しようと(そういうのは、ダサい姿勢であると自覚はしております)四苦八苦した結果出て来た言葉なのです。まず、「歩いて5分程度」が「延命措置にはおあつらえ向きの時間」という叙述について──わたしは何を思ったんだろう? 何を? すみません、忘れてしまいました。……これは、現代の生活様式を精確に皮肉った言葉でもあり、詩におけるカウンターとしての機能を有していると感じます。こうした目を引く表現から(詩にロマンを求める人は、逆に注目しないかもしれませんが)、引っ張られるように後の言葉が綴られていく。ただ、詩とは「言ってやったぜえ」で終わるものであってはいけないように思うのです。詩人が第一に悩むのが「どう書き始めるか」であり、第二に悩むのが「どう終わらせるか」ということです。「内容」など、詩の「持続」に比べれば蹴飛ばしても良いようなものなのです。──さて、この詩にもいつもの「ホロウ・シカエルボク調」が現れていると思います。ですが、読者にあっては、それで終わらせないでほしい気もしているのです。本当に少しずつの変化が、ホロウ・シカエルボクさんの詩にも現れている、と。かつて中原中也を批評した大岡著作の述作にあって、「冬の長門峡」はこの詩人におえる大成を示している、といった言葉があったように記憶しています。「30歳で死んだのだから、若者の表現だ」という読み方にたいして、カウンターを示したわけです。ホロウ・シカエルボクさんの詩を俯瞰的に見るにあたって、「僕が詩を書き始めたのは、二十代の前半に狂ったように書いていた小説のようなものが書けなくなったからだった」という言葉は重要であろうと思えます。「詩は小説の後なのか、先なのか」ということも踏まえて、ホロウ・シカエルボクさんの詩を読まなくてはいけないのです。……そこで、わたしは単に「はあ」とため息をつきますが、あるいは、ここにおいてホロウ・シカエルボク氏は「詩に染まって」しまったのでは? といった問題も現れてきます。例えば、室生犀星などは詩から小説に入っていった人ですが、ここでホロウ・シカエルボクという人物を理解するにあたって、氏は「小説から詩に入っていったのか?」と考えることは、きわめて重要な考察であり、読解の本質を示している考え方だと言えます。ホロウさんの詩における、散在していながらも透徹している音韻性、絵画的な描写、それがどのように作者自身の「作風」に合致し得たのか、マッチしたのか……ということ。──とりとめもない感想になりましたが、例えば「ゲンズブールの女だったころのジェーン・バ―キンみたいだった」といった言葉に、わたしはくすっとなるのですよね、ゲンズブールと言うと、わたしはセルジュの実の娘であったシャルロット・ゲンズブールとの間の近親相関的な愛情を描いた映画「シャルロット・フォー・エヴァー」を想起します。実は、この映画、機会がなくて実際に見てはいないのですが……。読者としては、「この詩はエロティックだ」という感慨をもっても良いのですよね。これ以上の解釈のヒントはここには示しませんが(なぜと言って、芸術作品を解題されることほど、その読者や鑑賞者を退屈させることは、ありませんからね)、ここに、詩を読み解くのではなく、詩作者自身を理解するための「よすが」というものが現れているような気がします。──実は、詩の解釈がどういったものであるのか、といったことはどうでも良いのです。インターネットの初期から、社会からはぐれて詩を求め、詩作品を解題してきた人たちは大勢いますからね。改めて感じるのは、この「長調から始まって短調で終わる」あるいは「短調から始まって長調で終わる」といった、精細至極にして微妙な「ニュアンスの変化」です。──わたしはどちらとも言い、どちらとも言わないのですが、この詩において時々現れる感慨のようなものが、「作者を突き刺す刃」になるのではないか? と感じます。「読者を突き刺す刃」ではなく。この詩の結論は「猫は、自分がまだ生きていると信じているみたいにビー玉のような目を見開いていた」ということですが、そうしたことを吹っ切る表現がそれ以前に現れている──そうしたことを、わたしは詩人における一種の「未来予知」のように感じるのです。もちろん、そうしたことは「タイムシート」に乗っ取って創作する現代の創作家において、しかるべき創作態度です。ただ、「はてさて、この詩人を舐めるなよ」ということは感じ。そのことを読み切ることについては、わたしはまだまだこの詩人の著作を十分に読み切れてはおらず……。「まあ、待ってよ、わたしの書く批評をね」……ということは思っています。全然、作品の批評になっていませんが、今日はこれにて。
---2024/04/07 20:36追記---

カクヨムに上記のコメントを投稿してきました。かなり変更を加えていますが……
https://kakuyomu.jp/works/16818093072979817006/episodes/16818093075113098381
お時間のあります時に、ご確認いただけましたら。
もっとも、カクヨムでわたし自身の投稿はほとんど読まれていないので、広告としての価値はあまり期待しないでください。
---2024/04/07 22:23追記---
- 鵜飼千代子 
うわぁーこれはまた半切海苔のような散文詩。手巻き寿司にしちゃおうか?と思いながら読みだしましたがするする行けました。面白かった。
詩中の話者がホロウさんかどうかは分かりませんが主人公「絆創膏を貼るのが好きな女子」に処置してもらえてよかったですね。しかも元看護師さん。キズパワーパッドみたいな絆創膏なら1週間ははりかえなくてよくてしばらく指を見ながらニヤニヤできたのにね、と思いました。ପ(⑅ˊᵕˋ⑅)ଓ
- soft_machine 
- ヒロセマコト 
 
作者より:
〇レタスさん

ありがとう。

〇アラガイsさん

考えてみれば、インテリであり、乞食でもあるのが詩人って生きものなのかもしれないですね。(ふっとポールオースターが浮かぶ俺)

〇おぼろんさん

あー、どうでしょう、最近は小説の方も年一くらいで書いているので(なろうに)自然に住み分けみたいなのは出来ているかもしれないです。
延命措置にはおあつらえ向きの~ですが、これはただ単に面白いなと思いながら書きました、軽口みたいな。
以前に一言ダイアリーに書いたのですが、僕の小説と詩の決定的な違いはリズムのみです。あまりこうだという説明は出来ないのですが、全然リズムが違うんですよね。リズム…スピードなのかな。
「シャルロット・フォー・エヴァー」は確か観ているのですが、なぜかセルジュが小便をするシーンしか思い出せません(笑)はい、エロティックで。
「作者を突き刺す刃」というフレーズを見て思い出したのですが、僕は一時期、「詩の中で自分の身代わりを殺している」みたいなことをよく言っていました。もう何年も前ですけどね。

カクヨムの方も近々読ませていただきます。来週はたくさん休みがあるので。

〇鵜飼千代子さん

の、海苔。しかも半切指定(笑)詩を海苔に例えられたのは初めてです。
まあ、ストーリーは完全に創作なんですが、願望…?願望じゃないか。

あ、ダイナミック表示の件、ありがとうございました。理解しましたが、この機能なんのためなのかイマイチわかりませんね(;´∀`)

〇soft_machineさん

ありがとう。

〇ヒロセマコトさん

ありがとうございました。

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