アーリースプリング・デイ/朧月夜
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ひだかたけし 
- はなもとあお 
- ナンモナイデス 
- 秋葉竹 
- アラガイs 

ちょっと厳しい見方をさせていただきたい。書かれてある内容はそれなりに素敵な文章なのです。なぜこのようにわざと読みにくいスタイルにするのか、いま流行りの漫才コンビ、ペコちゃん風に否定するならばそれはいいかも。たぶん普通にインパクトが弱いのでおもしろさを強調したいのだと思います。文語と口語表現が混交してその不自然さには気持ちわるさを覚えて云々~とかコメントされておられる方がいます。現代詩に寄り添えば何を今さら~とか思いたくもなる解釈ですが、ある意味彼のおっしゃっておられる事は正しい。正しくもありまた間違ってもいる。と私などは思うのです。つまり何が言いたいのかと言えばそのスタイルですね。自由な発想のスタイルとは個人的な力でもあり、それはまた魅力につながる特権でもある。しかしその反面見方が変われば見苦しくもなってしまうという危険性をはらんでもいます。なぜそうまでしてインパクトが欲しいのかと言えば、そう、読み手という存在を意識してしまうからでしょうね。その反面教師のようなスタイルが、わけのわからない自分勝手な解釈で言葉に置かれた難解な詩の造りでしょう。創作とは自由な発想による個人の意識からです。どちらにも正解不正解などはないのです。なので創作家はそのバランスに苦しむことになる。正直このような形式がこの詩の内容に見合うとはわたしには思えなかったのです。。
もちろん詩を投稿する以上読み手を意識しない書き手はいない。読み手は意識されて当然です。
しかしながらわたしは敢えて言いたいのです。
人々は驚きます。それぞれが自由に驚きます。
後ろ姿に顔(詩)を書き込んで敢えて(街の中)を歩く必要があるのかと。
変なオチのコメントですね。長々と失礼いたしました。






---2020/02/04 02:12追記---

---2020/02/04 02:18追記---
- ふるる 
たどたどしい感じがいいなと思いました。
 
作者より:
ポイントとコメントをありがとうございます。
タイトルを変更しました。

>アラガイ様

たくさんのご意見をありがとうございます。
まず前提としてこのごろはリルケの詩をよく読んでいて、
リルケ風の詩を書きたいというのがあります。
ただ、この詩は最初散文詩にしようか、自由詩にしようかと迷いました。
若干内容が薄いのと、露悪的な部分とがあるので、
その書きたくなさ、が語頭に「ため」を持たせるスタイルになったのかもしれません。
それと、音楽の世界だと拍や小節の後方に強拍を置いているものがありますよね、
そうした感じを少し出せればと思いました。あとは無調音楽の影響もあります。
厳しいご意見をありがとうございました。精進させていただきます。

>ふるる様

やはり無調音楽の影響ですね。ブライアン・ファーニホーとかも良いと思います。

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