フォアグラ/Lucy
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 梅昆布茶 
- ただのみきや 
- イナエ 
- 殿上 童 
- そらの珊瑚 
残酷、ですね。
- 夏美かをる 
とても鋭いです。松岡さんの作品にはよくハッとさせられます。こういう残酷な現実にも正面から向き合う姿勢は大変立派だと思います。流石松岡さんです。
- 秀の秋 
- 北大路京介 
- 芦沢 恵 
- まーつん 
考えさせられる内容で、読み応えがありました。
松岡さんの詩は栄養価の高い低カロリーな健康食のような味わいで、
フォアグラとは対照的です(嫌味ではないですよ)。
作品中のフォアグラは表層的、物質的豊かさの象徴であり、
飛翔や囀りが、鳥という生き物が持つ本質的な豊かさの象徴として
描かれているのではないかと感じました。
日々を生きていく為の足掛かりの一つとなるような、
そんな確かさをもつ視点が素敵です。

- 星野つばき 
- るるりら 

ファグラになる鳥は 飼いならされすぎると肝臓が肥大しないのだそうですね。
もともと渡り鳥だった性質を忘れてないような育ち方をしないと ファグラには ならない。
遠くまてせ飛ぶというイメージをもってない鳥の内臓だけが肥大する。

それって、イメージだけ肥大しがちな現代人の悲哀と相通じるものを感じました。
 
私は、もっと
身体をつかって五感で 世界を感じたいなーと 思いました。
- りゅうのあくび 
私詩という文学なのでしょうか。私小説という文学があるように。
- mizunomadoka 
 
作者より:
ご挨拶が大変遅くなりました。
読んでくださった皆さん、ありがとうございます。ポイントやコメントをくださった皆さんに心から、感謝申し上げます。

梅昆布茶さん、ポイントをありがとうございます。 
- れたすたれすさん、ポイントと、コメントをありがとうございます。 

- ねむのきさん、ポイントと、コメントをありがとうございます。 

- ただのみきやさん、ポイントをありがとうございます。 
 
- イナエさん、ポイントをありがとうございます。 
 
- 殿上 童さん、ポイントをありがとうございます。
 
- そらの珊瑚さん、ポイントとコメントをありがとうございます。
以前珊瑚さんの詩に生きたまま鳥の羽をむしって、ダウン(フェザー?)が作られることが書かれていて、
鳥の受難について考えるようになりました。
この詩ではその残酷さを直接告発すると言うよりも、メタファーとして他の事を言おうとする意図があったのですが、
やはり事実としての衝撃が強すぎて、そちらのインパクトに頼るというか、
そんな作品になってしまいました。、 

- 夏美かをるさん、ポイントとコメントをありがとうございます。いつも寄り添って励ましてくださるコメントに、どんなに力づけられる事か・・。心から感謝しています。 

- 秀の秋さん、ポイントをありがとうございます。 
- 北大路京介さん、ポイントをありがとうございます。 
- 芦沢 恵さん、ポイントをありがとうございます。 
- 風野一郎さん、ポイントをありがとうございます。 

- まーつんさん、ポイントと丁寧な読解をありがとうございます。 

> 松岡さんの詩は栄養価の高い低カロリーな健康食のような味わいで、
フォアグラとは対照的です(嫌味ではないですよ)。
  あは、嫌味とは思いませんが、皮肉かと思ってしまいました。すみません。(*^_^*)
あたたかいコメントに心から感謝いたします。励みにさせていただきます。

- 星野つばきさん、ポイントをありがとうございます。 
---2015/04/06 22:19追記---

---2015/04/15 18:16追記---
るるりらさん、ご挨拶が遅くなりました。深い読解と考察をありがとうございます。
たいへん興味深く読ませていただきました。
飼い慣らされて、野生のイメージを持たない者の肝臓は肥大しないって、知りませんでした。すごく暗示的ですね。
「イメージだけ肥大しがちな現代人の悲哀と相通じるもの」
そうなんです。そういうような事を考えて書いたような気がします。  

- 竜野息吹さん、ご挨拶が遅くなりました。とても興味深いコメントをありがとうございます。 
>私詩という文学なのでしょうか。私小説という文学があるように。
考えてみました。↓
「私」と言う主語で書かれているからと言って、必ずしも私小説ではない小説があるのと同じように、
詩にも「私」という話者に託されたフィクションである余地は残されていると思います。

ただ詩の場合、話者が、作者に限りなく近い存在として現れると言う特徴があると思います。
小説と比較して、より直接的な表現と言うか、「語りて」が同時に「歌い手」である場合が多いからか、
より、作者自身の心の直截な表出として読まれがちだということはあると思います。
私の場合も、自分の生活実感に基づいたところから、詩を描こうという動機を持つ事が多いので、私的な題材がモチーフになる場合が多いです。
ただ、例えば画家にもいわゆる抽象画を描く人と、具象画を描く人があると思いますが、

静物や自画像など、具象を描いているように見えても、必ずしもそれが「写実」ではない場合があり、
想像上の風景や、自分とは似ても似つかない自画像であった場合、そこに存在するのは芸術表現としての演出、構成、脚色、デフォルメなどと言った作者の意図だと思います。

これを詩にも当てはめて考える事ができるとすれば、一見プライベートな日常を淡々と描いているように見えても、
それがはたして、詩なのか、日記なのか、という違いは、あくまで、モチーフそのものではなく、描き方にあると思えるのです。
描かれた作品が、作者の実際の日常や経験、あるいは感情で有ろうが無かろうが、
私たちが読むのは、詩作品としてのひとつの完結した世界であり、
ひとつのフィクションなのではないかと思います。
それが真実により近いか、それともウソ臭いかによって、
詩が伝わるとか、つたわらないとか言っているのではないかと思えるのです。
---2015/05/18 21:26追記---

mizunomadoka さん、ポイントをありがとうございます。読んでくださって感謝します。

Home
コメント更新ログ