続・田村隆一詩集 現代詩文庫を読む/葉leaf
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- イリヤ 
- 壮佑 
- peau 
- 岡部淳太郎 
- アラガイs 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- るか
・・・別に口に出すのも無粋ではあるのかも知れませんが、垂直と水平の比喩は全く言うまでもなく十字架から来ているのは明らかであるし、時間の縦軸=歴史、空間の横軸=社会という含意を言わずもがなの共通了解としている辺り明確にしておかないと、単なる主観的な連想の記述にしかならないのでは。よもや、それを知らない、気づかなかった、なんてことはありえないという前提ですが。
---2012/09/01 10:09追記---
ご承知のように、テクストが無限に意味を増殖させ云々が言われてから、もう40-50年程度は時間が経過している訳ですが、そこに何ら疑問を持たれないんでしょうかねえ。特にコミュニケーションにおける倫理的な問題ですね。鮎川、田村らにカトリシズムが濃厚であったことは、つとに指摘されていたのであって、少し調べれば誰でもお分かりになる。解釈可能性の幅というのは、勝手に、自分の都合の良いように人の言葉を利用して良いという意味ではないとわきまえますが、いかがですか?亡くなった方々の作品については、作者の思いも積み重ねられた批評・研究も無視してよいということではないのでは。詩的伝統、気風の継承という側面から、いかがでしょう。
---2012/09/01 13:23追記---
当たり前でしょ、そんなんw
これのどのへんが新しいのか、もう少しご解説があると分かりやすいですね。価値ある新しさなのか、無視して良い新しさなのか。何しろ先行するしかも極めて基礎的な認識すら欠いている文章の作者が自称する新しさ、そういう論拠では、ちょっとねえ。応答ありがとうございます。
 
作者より:
垂直・水平が十字架に由来するというのはそれほど明らかなのでしょうか。また、垂直が時間、水平が空間というのもそれほど明らかなことには思えないのですが。批評において自明なことなど存在するのでしょうか。テクストは作者から切り離され、無限に意味を増殖させ、それが読者において収斂する、という説もありますよね。
---2012/09/01 13:15追記---
まあ、僕が引っ掛かったのは、先行する研究や批評を自明視する立場であって、それをないがしろにするつもりはありません。「他人がこんな批評をしている」と紹介するだけなのは批評だとは思っていません。何らかの新しい視点が必要だと思っています。

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