ヒューム「ベルグソンの芸術論」(5)/藤原 実
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 氷水蒸流 
センス、ナンセンスの論争は、あっちは肉を食べたいと言い、こっちは魚を食べたいと言ってるようにしか聞こえないなあ。食べたいもの食べればいいのに。
- 松岡宮 
- 高梁サトル 
- るか 
楽しく読みました。現状認識としては、荒地派的な抑圧、悲劇ぶりっこは既に過去のものになっている。今後益々そうなるのは、戦争の記憶のうすらぎの結果として目に見えていますね。わたしなどは寧ろそのような時代の流れへの一種の反抗として、荒地派を高く評価していますが。ナンセンスな詩をことさらに妨害するような野暮は致しません。しかし意味の詩を批判することでモダニズムやナンセンスを持ち上げる振る舞いはやはり政治的意味を担うことになりますね。非政治ないし脱ー政治という政治性。西脇の限界はポエジーと宗教を区別してしまった所に感じます。詩が人を救うといっても、宗教には叶いません。だから宗教未満にしかならない。ナンセンスと宗教の関係や背立にも関心があります。エリオットの諧謔は背景としての信仰が支えているのではないですか。鮎川らの余裕のなさは信心の不徹底と通底しているように思えます。
- 「ま」の字 
 芸術とは「論理」「理屈」で「説明」するものではないし、説明的態度ではいい芸術は作れない。という考えがある。つまり芸術とは「論理」「理屈」「説明」と対立する要素としての「感覚」「感情」「(統一的に説明される前の)実感」などを重視する営みであり、ときに特異な感覚や実感を人為的に作り出そうとさえするものであると。私はそのような考えを一応は正しいと思っている者です。
 が、しかし、文学というのはまさにその「論理」「理屈」「説明」の道具たる「言葉」を素材とした芸術です。いわば呪われた素材による呪われた芸術。不幸になるに決まってる(笑)。このジャンルは他の芸術より自殺が多いような気がするのですが気のせいですかね。「音楽や彫刻の方がずっとラクだ」と唱えた人間も、歴史上一人二人じゃないだろう。と思います。
 しかし、音や形象ではなく、コトバを素材として選んだ以上、この素材の持つ2面性(思考・説明の具であるとともに感覚の具でもある)を受け入れざるを得ないだろう、と思います。できればこの背反すると見える2面を高度に両立あるいは統一した作品というのが理想なのでしょう。しかし現実に生み出される作品は、どちらかに重心がかかった、いわば「偏った」代物でしょう。そもそも、意味(説明、論理)あるいは感覚の片方のみによる言語表現というものは、厳密には存在しえないと私は思います(たとえば哲学や政治思想の論文においてさえ、我々の実感に訴える要素なしでは、論証という作業は成立しないのではないか)。だから、どうバランスを取るか=どう偏らせるか、を考えながら論理なら論理を、感覚なら感覚を、実感なら実感を、価値ある形に仕上げてゆく、という作業なのではないか。そんな気がしています。

 そして結局 「その“価値”ってなあ、なんだね?」 と呟くのです、、、

 ややしばらくして、「それは俺の場合、やっぱり“これいい”とか、“これ書きたい(書かねば)”と思う感覚や体験だな。もう一歩進めると、その“これ”という部分だな」と思うのでした。

 (最近は老いてしまい。“これ”を感じる力が落ちてしまいました。)
---2011/02/22 23:56追記---

---2011/02/22 23:58追記---

---2011/02/22 23:59追記---

---2011/02/23 00:00追記---
- ふるる 
興味深く読ませていただきました。
エリオットの「荒地」はエリオットの愚痴満載の詩をパウンドがうまく編集して売れた詩集だとどこかで読んだのを思い出しました。
意味ではなく言葉のつながりで人気のあるのはジョン・アシュベリーですね。
いわく「私が自分をいちばんよく表現できるのは、音楽だという気がする。私が音楽で好きなのは、その説得力ー
ある議論をきちんと結末まで運んでいきながら、一体何を議論しているのかは少しも分からない、そういう音楽の力である。結局あとに残るのは構造、
つまり議論や場面や物語の構築のしかただけ。私は詩でそれをやりたいのだ。」
(『アメリカの詩を読む』川本 皓嗣著 岩波書店より)

「やはりあるインタビューで、『言わんとすること』はあるが、『伝えたいこと』はない、と答えたあと、
『特に世界に何か告げようという気はない』とも言い切っている。」(『ジョン・アシュベリー 「可能性への讃歌」の詩』飯野友幸著より)

長々と失礼いたしました。続きも楽しみにしております。

 
作者より:
氷水蒸流さん、松岡宮さん、高梁サトルさん。読んでくださってありがとうございます。
 
センスとナンセンス、というのは、王と道化、みたいな関係なんじゃないかなと思います。
---2011/02/23 21:14追記---
渡部 雅士さん、無名生さん。ありがとうございます。 

この稿の[続き]を書くためのネタ探しにオクタビオ・パスの『弓と竪琴』を読み返しているのですが、そのなかでパスは宗教の救いとは永生の救いであり、それは永生の生を生きることであると同時に永生の死を受け入れることである、と言うようなことを書いています。なぜなら「生と死は不可分」なものであり、「死は生の中に存在し、われわれは死につつ生きる」ものだからです。
宗教は生と死を対立するものととらえ、ひとが死すべき運命であるゆえに罪を負っていると見る。永生の生を約束するかわりに永生の死という生け贄を要求する。
一方で詩の救いとは瞬間瞬間の救いであり、「一瞬、その時だけ。一瞬、そして永遠。われわれが過去のわれわれであり、そして未来のわれわれでもある一瞬。生まれることと死ぬこと---一瞬。その瞬間、われわれは生であり死であり、これでありあれである」と言っています。
詩は死と生を---「これでありあれである」ものとして---和解させ、われわれに「死を生きる」ことを示す。
西脇順三郎の言う「救済」もそんな瞬間の救いなんじゃないでしょうか。

荒地派が中途半端---ぼくはそういう感想を持っているのですが---なのは、死を生け贄としながら、その死を託すべきものがなんだったのかよくわからないところです。「信心の不徹底」という以前に、『Xへの献辞』でくりかえされる「罪」や「宗教的倫理」や「回心」やらの対象がアイマイすぎると思います。

といっても、ぼくも荒地派を全否定しているわけではないのです。鮎川や吉本はダメでしたが、田村隆一はむかしもいまも好きな詩人です。

正直言って、宗教と詩の問題に、思想や倫理あるいは信仰的立場から深く考えたことがないので、あくまでも詩のコトバでとらえようとしているだけにすぎないのかもしれません。
以前、そんな面から詩と禅に関する文章を書いたことがあるので、もしお時間があればのぞいてやってください。
「無門関 ZEN & POEM http://pesyanko.itigo.jp/wiki/index.php?MUMONKAN

---2011/05/06 21:11追記---

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