「しゅき」の記憶/umineko
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- いとう 
- 深水遊脚 
「評」の言葉って対象の詩があって初めて成立するものだから、もともと貧しいものだなと。文中の評に似たような言葉を数年前私もよく書き散らしていたような。苦々しく思い出します。

結論とはあまり関係ないようですみません。詩がより多く批評の言葉を引き出し、批評も豊かな言葉で迎え撃つ。そんなやりとりならいいな、と。
- 生田 稔 
- おるふぇ 
- とうどうせいら 
「しゅき」は、わたしはとても好きな詩です。
ただ好き、というだけでなく、生活の中で何回も思い出すことがあります。
暮らしの中でふと思い出される、というのは、
うたにとって本当に生きた魂をあたわったあかしだと思うのです。

わたしは詩を何度も読み返すタイプですが、
この詩は確かにそんなに多く読み返してはいないです。
せいぜい1,2回です。
なぜかというと、1回で頭の中にしみ込んで覚えてしまったから、
文字という形で自分の目に焼き付ける必要はなくなったからです。
この詩の中にあった言葉は、自分の生活の中にも、
どこかあった風景で、何回も繰り返す必要はなかったのです。

こどもが、
幼稚園で習ったわらべうたを1回で覚えて帰ってきてしまうように、
わかりやすく生活感を持ったなつかしいうたは、
すーっと体の中に入ってきてしまうものなんだと思います。
わたしにとって、うたの中になつかしさを感ずる、というのは、
日本人の暮らしの中にひっそりと息づいてきたことを言葉で味わうということ。
けして懐古趣味や郷愁、近代詩や、民話や、純文学や、田舎暮らし、の中にだけあるのではなく、
今の時代のことばでもなつかしいいとおしい詩は作れるのです。

あと、わたしは合評会形式のものしかしたことはないですが、
筆者の「書きたい方向性」についてダメ出しをするのは、
いけないと思っています。(自分ルールですが。)
まずこの筆者は何を書きたかったのかっていう方向性をできる限りの読解力をもって把握することは、
評する側の義務であると思います。
その上で、それが読み手に伝わるようになるには、
どうしたらよいかという「技術評」を、
自分なりに具体的に伝えるようにすることだと思ってます。

わたしは評はストッキングの破れを注意する程度のことと思ってます。
「ストッキング、伝線していますよ」
と、わたしの見える範囲のその人の状態を伝えます。
そうするとその人なりに考えて新しいのをはきなおししたりすると思います。
「ストッキングなんて穿くもんじゃないよ」
っていう伝え方は、
ストッキングを穿いて脚をきれいに見せたいっていう、
その人のファッションにたいするこころざしそのものを無視することだと思います。
「これを何度も読み返す気になりますか? 
何を感じさせたくて書かれたのかよくわからないんですか?」
っていうような問いは相手に対する敬意を欠いているような気がします。
わたしがどーーーしても批評作がわからない時は、
「あなたの伝えたいことが『まだこちらまで伝わってきてません』」
っていう風に言います。
伝えたいと思って書いているっていう創作者としてのこころざしの部分については敬意を払わないといけないと思う。

自分の言葉がない、っていうのは、
わたしもしょっちゅう言われるけど、言われた時に、
「でもわたしはこれが必要なのだ」
って瞬間にはっきり思えた詩は、
大体そのまま突っ切ってあとで違うコンテストに入選することが多いです。
(実はこないだ3月に専門誌にとりあげて頂いたわたしの詩は、
似たような経緯で掲載になりました。
載る前は、オリジナリティが感じられないといろんな人に言われていました。
評をくれたことにはすごく感謝しているけど、
わたしにとっては必要なことばだったのでその詩は推敲はせず、
そのまま進むことにし、そうなりました)
筆者の確信っていうのは作品にとって一番正しいものです。
 
- 佐野権太 
- はらだまさる 
- 石畑由紀子 
- 鵜飼千代子 
はい。
 
作者より:
やっと書けてうれしい。
読んでくれてありがとう。

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