書く動力14
Dr.Jaco

薄皮一枚とか、よく言う(かつて言った?)が、私は愛と憎しみ無しには生きて
いく自信が無い。その境界こそ他愛も無い、しょうもない代物である。私は最近、
会社の中でいわゆる「事務屋」から「現場」と言われる営業の世界に移ったので
あるが(誤解の無いように言うと、事務もまた書類のうえで顧客や営業担当者の
主張が蠢く「現場」なのだが、そうは言わない年寄りが多い)、千差万別の顧客
を前に話をしていたり、それによって契約ができたりできなかったりする毎日は
感情の起伏の連続である。「自分は王様だ」と思った翌日に「自分は大バカだ」
と沈む日々。

そんなふうに、愛と憎しみの間も行き来している。行き来しながら言葉を吐いて
いる。そんなふうにしていることに飽きたかのように私は文字を置くのであるが、
別に脱出できたような振りができるだけだ。だから、もとの愛憎の世界に引き戻
す(還元するかのように思える)朗読というものを忌み嫌っているのかもしれな
い。(動力の結果である文字を読むことによって、動力を再現する試みは失敗す
る、とも思っているが。一方的に聞くことは動力とは関係ないという偏見。)

愛憎の境目たる白いシーツの皺は、写真に映った海と空の境目であり、手のひら
と手首の皮膚の境目であり、男性器を挿入したときの女性器との境目であり、男
性器からしか見ることのできない私と女性との境目であり。
という、各々の位置を特定する際にくぐり抜ける境目であり。

つまり、その度に何かを通過する、ということは何かが過ぎ去り、であるならば
何かを失っているということかもしれない。

営業の結果が上手くいこうがいくまいが、1日の疲れとともに味わう喪失感こそ、
自分の言葉が外界に置き去られたことの喪失感なのか。話しているその瞬間は、
仕事を遂行している自分が「無駄無く」話しているように感じていた言葉が、空
しく堆積して1日が終わったのではないかという疑念か。

ご多分に漏れず、私の所属する企業でも「スピード」が求められているが、何の
ことはない日々の営みにここまで多感にさせるのは、私の日常に対する処理能力
が追いつかなくなっているのか、それとも言葉の使い捨てを強要する何らかの力
が強くなったのか。使い捨ての進行が事実なら、その後はどうなるのか。

でも私はどちらかというと「大バカ」であることの方が多いので、今日の結論と
しては、自分の処理能力の欠如ということにしたい。まぁ、明日になれば変わる
かもしれないが。

蒸気機関のように、愛憎を行き来しながら言葉を排泄する動力の存在だけが否定
しがたいように思えた。


散文(批評随筆小説等) 書く動力14 Copyright Dr.Jaco 2006-12-05 00:21:38
notebook Home 戻る  過去 未来