書く動力13
Dr.Jaco

書き出しに戻ることは極力避けたいと思っている。オーネットコールマンが最初
の一吹きに立ち戻ることは、マウスピースに吹き込まれた瞬間の霊魂が不可逆を
宣言している、というくらい無理である。カートリッジがターンテーブルを疾走
している、というくらい近接した視界の中で宣言される。「どこから来て、どこ
に行くのだろう」なんて言ってる暇なんて無いのである。
というくらい、常に不可逆な朗読というものを私は避けて来た。私は声にする人
間(他人)の媒介を排除したい。自分でやるなんてもってのほか。
それでも、自身が詩を書くときに音声を自覚できれば、少しはやる気にもなるだ
ろうが、そうではないのだ。私はたいてい、横書きのワープロ(ないしワープロ
ソフトの起動したPCの前で背中を丸め、画面に顔を突っ込むような心地で書い
てきたのであるが(今はさほどでもないが)、自分が感じた(ということも定か
でないような)ことを文字に置き換える試みは無声映画の空間なのだ。それはた
とえ「クラクションを聞いた」と書いていても、何の音もしていないのだ。むし
ろ聞いた瞬間のびくっとした体の動きとかがイメージされていたりする。

イメージを相手にする作業は、自分がそこに潜入していくのか、イメージが自分
にまとわりつくのかがはっきりしない、境界的な作業である。よくある話だ。ミ
イラ取りがミイラになる、だったり、取り込んだはずの思想に取り込まれるなん
てケースが多分そうだ。そうした近視眼的な中で私は書いてきたし、今もたいし
て変わってはいない。

で、結局は自分が潜入していくはずのものに捕まるということが、自分のイメー
ジを書き表すということなのであれば、境界を表現することからは遠いのである。
境界へ向かって書くつもりが、つまりは境界に押し上げられるように書く、つま
りとうの昔に境界を透過した地点でしか書いていないのである。ひとりよがりな
物言いであるが、こういう表現しかできない。いったん言葉を吐いてしまった以
上、戻れないのに戻った振りをしたいのだ。その時、肉体は不可逆の流れに逆ら
って過度の負荷に身悶えする。のが、ゲージツ的だな、なんて。

言葉を得た課程が、科学的に再現不可能な、不可逆なものだと立証する資料を、
読んでみたいような見たくないような。ふとそれより恐ろしくなるのは、「書く
動力」そのものが不可逆であることか。すなわちそれは書くことが「だだ漏れ」
の事象でしかなく、正体は捉えられぬままだということだ。今まで「位相の転位」
とか何とかカッコつけて言ったことは方便であって、書かれたことの堆積が後戻
りを許さぬまま膨張していくということだ。

ゴミの山でもいいし、排出された多量のCo2でもいいし、そんな程度にしか思
えないものが、文字の行き着く先なのではないかという疑念。それが「手詰まり」
ということだが、そんなものは関係なく常に駆動する動力。駆動のメカニズムと
動力源は境界に在るのだという予感は背に負われながら、自らの目にすることは
無い位置を示していた。

愛と憎しみはその境界を擬似的に存在させ、予感を満足させるために現れるのだ
としたら、うなずける気もするが。


散文(批評随筆小説等) 書く動力13 Copyright Dr.Jaco 2006-11-21 00:00:38
notebook Home 戻る  過去 未来