追悼 Joe Zawinul
Dr.Jaco

9月12日、夏風邪の治り切らないもったりした頭痛気味の私の携帯が振動した。妻からのメール
で、Joe Zawinulが9月11日、ウィーンで永眠したとのことであった。昨年8月、仕事で疲れた
身体を引きずりながら名古屋ブルーノートで聴いた彼のバンドのライブであったが、今となっては
本当に聴きに行ってよかったと思う。
思えば27年前、中学生か高校生の頃、NHKFMの「軽音楽をあなたへ」という番組で聴いたのが
最初。未だ詩に出会うこともなく、日常がつまらなかった私は耳を疑ったのを覚えている。シンセ
サイザーという楽器が、当時流行っていたYMOの使っているそれとは別の楽器に聴こえるその不可
思議さに、自分の知らない全く新しいものを聴いたような気がした。そして、未だにその時以上に
新しい感覚を抱いたのは北園克衛に出会った時以外には無い。
そして、私の書くものは彼の音楽を追い求めているだけであったということも今一度思い起こして
しまう。

彼の音楽は他の音楽で例えるなら、「リンゴ追分」である。ご存知美空ひばりの名曲である。美空
ひばりを知っていてJoe Zawinulを知っている人がどれだけいるか知らないが、私にとっては共通
項がある。

彼が自分の曲を語った言葉でもっとも印象深いのは「ゆっくりなのに速いテンポ」という何かのイ
ンタビューでの話であった。彼はJoe Zawinulという名よりも有名なWeather Reportというバンド
を率いていたのだが、最高傑作と言われるアルバム"Night Passage"のラスト、Madagascarという
曲のことをこう言ったのであった。27年前、初めてその曲を聴いたときの私にはそうした理解がな
かった。速い曲は速く、遅い曲はものたりない、というだけの感じ方であった。紅白で聴くリンゴ追
分も、ただののったりしてうっとおしい曲であった。そして私は翌々年くらいから詩を書き始めたの
だが、速いだけの、がなりたてるだけの、ぶちまけるだけの、キーキー言うだけのものであった。
(私は今自分の書くものが進歩したと言いたいのではない。ものの聴こえ方とか見え方が変わったと
いうことが言いたいだけだ。)
昨年の名古屋ブルーノートで再びこの曲を聴いて、「ゆっくりなのに速い」の反芻を一人楽しんでい
たのだった。

話戻って、「ゆっくりなのに速い」リンゴ追分に私が何を聴いたのか。聴いたのは曲かもしれないし
そうではないのかもしれない。というのも、聴きながら私は自分の心が早口に叫び出すのも聴いたの
だ。「ちくしょう愛してるぜ」とか「何であんないい人が苦労しなきゃいけないんだ」とか「世界を
ぶち壊した団塊の世代は死ぬ前ぐらい節約しろよ」とか「くそ、胸が張り裂けそうだぜ」といった手
合いの他愛もない言葉が意味なく連なるその、エクスタシーであった。
言うあても無かった、出す機会も失われていた言葉であった。鼓動が共鳴するのを感じた。20歳を
過ぎてしばらく経ったある日のことだったと思う。
ゆっくりゆっくりしたテンポの中で、息せき切って出る言葉の噴水を抱きしめるとき、無性に愛した
い(というのも赤面ものだが)という気分のエクスタシーだった。
そのゆっくりとした抑制気味の曲に美空ひばりにせよ、Joe Zawinulにせよ、彼・彼女の愛を感じら
れたということの幸福感であった。

速い曲には、別の愛があると思う。回転する地球ゴマが作る残像の皮膜のような立て続けの音のカー
テンが、逆に私を安らいだ気分にすることもある。しかし速い曲はそこで終わって、私は自分が何も
吐き出していないような気分になることもある。

楽曲が優れているのは前提としても、「ゆっくりなのに速い」曲は演じ手の抑制した愛情がなおも溢
れんとするその境目で、私の横溢する気持ちの堰を切ってしまうのだ。

誰しもそうだと思う訳もないが、私にとっての名曲はそういうものであり、それが私の思う優れた詩
への考えに繋がったのだと思う。

「ゆっくりなのに速い」が私の関心事になった頃、北園克衛は全く都合良く本屋にいた私の手元にや
ってきたのだった。抑制をフルに効かせた短い文節の陳列において感じるテンポは「ゆっくり」、殊
更に向かってくるのでもない言葉なのになぜ自分の鼓動が早くなって心が饒舌になるのかということ
なのであった。(北園克衛のことはかつて別の場所でさんざん書いたのでこの辺で)

おかげで私は速いだけの、がなりたてるだけの、ぶちまけるだけの、キーキー言うだけの詩は書くま
いと勝手に自分に誓ったのであった。20歳から25歳までの間にあったこの変化に私は非常に感謝
している。

ハイデガーなんぞにも関心のあった彼は、ちょっと近寄りがたいジジイになっていたのかもしれない。
しかし制御された楽曲の中でファンキーに叫ぶ愚かさでなく、聞き手にファンキーに叫ばせる機会を
プレゼントする、そういう愛情の持ち主であったと思うのである。
与えるということはそう簡単ではない。感謝するだけの寂しい夜に、大音響で彼の最新ライブアルバ
ムを聴いていた。



散文(批評随筆小説等) 追悼 Joe Zawinul Copyright Dr.Jaco 2007-09-19 00:46:51
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