書く動力12
Dr.Jaco

でも実は「貴方」の「前」にある「私」も手に入っていない。言葉を得た課程を
得た「後」の言葉で書くことがだいたい間違っている。前回脈絡も無く名古屋人
と自分との「折り合いの無さ」を言ってしまったが(私が排除されているのだか
ら別に名古屋人が悪い訳ではない)、「折り合い」程度のことでも苦心惨憺、書
けない書ききれないと嘆いているうちに早中年のおっさんになってしまったとい
うことである。

言葉を得る瞬間の境界は、たぶん以前からくどくど言い立てている「シーツの皺」
と同じである。越えた後に消えてしまう境界である。

文字を置くことによって、昆虫のような(というのも知らないんだから比喩以下
であるが)視界が例えば手に入るのではないか、といった、妄想がよぎる。よぎ
ったのは「境界」がよぎったのではないかという妄想が更に連なって、それは美
女の黒髪のサラサラだったりカーテンのひらひらだったりということなのだ。

恐らく私などより遥かに具体的に詩というものを芸術的に考え(=緻密に考え)、
実践している人や、私などよりずっと卑近なものとして考え(=日常的なものと
して考え)、しかも朗読しているような人からすれば、私の書くことは単なる苛
立ちの対象でしか無いであろう。この文章に漂うムードそのままに、私は中途半
端なのである。いやぁ、そんだけ言えただけでも立派りっぱ、なんて、怒る?

でも私は言葉を得るまさにその境界の自分を捉えたいと切望している。私が自分
の書いたものの中で接触をやたらと引き合いに出すのは、「境界」との接触があ
り得ないことの裏返しである。既に私は境界を突き抜けたという感触すら保持で
きていないからである。生まれた時には言葉を持たず、4歳で言葉を得たという
母親の証言があるにも関わらずだ。

動物だろうと昆虫だろうと、もし彼らが言葉を持たないのなら、彼らの視界に戻
りたいという幻想と、今言葉を持ってしまっている自分の位置について、行き来
することは無く、拡大する(と表記されている)宇宙のように不可逆に言葉の世
界が拡大する一方なのだ。それが「無限の可能性」でも「いずれ訪れる破裂」で
もなく、ただ「拡大」という方向だけを現すなら、それが私のいる位置において
は一つの矢印にしか見えなくても、(人間でなくとも)どこかの誰かが見ればあ
る円環の部分なのか、教えてほしいとただ駄々をこねる、赤ん坊みたいに。

今更、「どこから来て、どこに行くのだろう」なんて、陳腐よね。


散文(批評随筆小説等) 書く動力12 Copyright Dr.Jaco 2006-11-16 00:28:09
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