書く動力11
Dr.Jaco

さて、1年以上も放っておいて書き始めるに当たり、10までを読み返してみた
ところである。本州最北端の県庁所在地から、日本のへそを自負しながら東京か
らは全く相手にされない中途半端な都会へと移住して1年。腹黒い・・・のでな
く、内面に多くの闇を抱えて時折爆発する名古屋人との折り合いがつけられずに
1年以上が経ってしまった。取り敢えず名古屋人とのことは別の機会があれば書
くことにしよう。

前回「生きていることを確かめたいだけなのか」と、言った。ひょっとすると、
生きているような気がするだけでも生物としては結構上等なのに、さらにそれを
確かめるなんて相当おこがましいかも。

異なる感覚の間を想像も絡めながら移行する、その「違い」というのは、時間的
な「順番」であったり、空間的な「隣」としての前後左右だったりするのだろう
が、成否は他人に仰ぐとして、詩を書くときに文字を置いていく過程はその位相
の展開を文字にしたいという欲求に他ならない。字は通じ合う者同志に決められ
た「順番」通りに置くしかないからだ。ただ、広大な景色を数人で目の当たりに
しているのと違い、文字にされた以上、それは「私」もしくは「貴方」のまだる
っこしいアメーバがくるんだ後排泄したものなのだ。広大な景色を見ている数人
は、まさにその時自らのアメーバに景色をくるんでいるのであるが、文字はそう
ではないのだ。常にその「後」であり、「後ろ」なのだ。

では、くるんでいる間そのものはどうなのだろうか?
なんて思うということは、私は自分の書くものに、自分が言葉を得た課程を燻り
出したいと思っているのではないだろうか?
って、今までにも思ったことはあったのだが、自分では余りにも持て余してしま
う「名古屋」という環境にあって、初めて口にしてみた。
「水面に顔を浸す」とか、「行ったり来たりする」とか比喩された「言葉さん」
とは、私が言葉を得た課程そのものではないのだろうか。

言葉を得た課程を手に入れる=表現可能にするということが、次(よくわからな
いが「順番」で言うところの「次」)を得る手段ではないか。嫌になるほど浅は
かな動機である。

「次」とは「貴方」である。


散文(批評随筆小説等) 書く動力11 Copyright Dr.Jaco 2006-11-07 01:20:59
notebook Home 戻る  過去 未来