いじめー補遺
石川和広

僕は「いじめ」に関する二つの文章を書いた。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48249
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48276
そこで、示したかったのは、人間は、ダメと言われても悪いことしちゃうかを考えたかったからです。
基本的に「いじめ」は、理屈を超えて許されないことで、やっちゃダメです。しかし、なぜ繰り返し形を変え起きるのか?また古島さんがhttp://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48290で、しめされたように、ストッパー(古島さんのいう補完)が効かなくなったのか?
古島さんの文を読むまでは「補完」という視点は思い浮かばなかったので有難いです。

そもそも悪いことってなんだろうとさかのぼって考え、自分の経験のうちから、何か出していかないと、自分に起きたいじめに納得がいかないからです。
古島さんは自身の経験から、今のいじめは虐待だと言うのですが、そしてそれは、暴力を許さないという古島さんご自身のポリシーをも示し力強いのですが、虐待が起きてくるのは、それぞれケースがあり、また、いじめという言葉は古島さんは反対しておられたけども、その独特の、今のバラバラになった個々がもつ最悪の関係の形だとおもうので、いじめのまま、今も書いております。
言葉というのは、安直な意味を持つことも多々あり、適切に事柄を記述しないこともあり、古島さんの言うように「援助交際」は、罪悪感を軽減してしまいます。
しかし、いじめを受けたものとしては、あの経験は虐待、暴力を含んだもっと、複雑な心理と現実の総体であって、そのニュアンスは今のところ「いじめ」と呼ぶしかないもの、他にもっとしっくり来る言葉があれば、いいのですが、、
要は、その最中にあるものにとっては、言葉の問題よりも、何か理不尽さと呼ぶしかないものがあるのです。
それを「悪にさらされている時の無力感」と呼んでもいいでしょう。

さて、ここまで書いてみました。古島さんの示唆は、いくつかの点で興味深かったです。いじめを別の呼び名で呼ぶ、本来、暴力という言葉にもどすというところは、そのいじめという悪が暴力であるというところ、にふと立ち戻らせることが出来て少し、自分の頑なさがほぐれました。
ただ、暴力も人間関係の形です。許されないけど、そうです。そこを解かなければ今の形のような個がバラバラになった中での暴力の形を考えられないと思います。




散文(批評随筆小説等) いじめー補遺 Copyright 石川和広 2005-09-07 19:06:05
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