いじめ1ーサカキバラ君について
石川和広

以前サカキバラ事件があった時、僕はとりたてて驚かなかった。
あれくらいのことは、やらかす可能性のある子はどこにでもいる。
単にやらないだけだ。僕がそう思うのは、いじめられていて、あくまで僕個人の主観から話すが、いじめられていて、こいつなら殺されかねないと直感したことがあるからだ。僕個人のことは後に回す。
あくまで僕個人の主観の話である。殺された子は障害者で自分より弱い。しかしなついていた。この、なついていたというところに、いじめの純粋な形がある。
なぜなら、道徳的、法律的にいうと、加害者と被害者の、つまり個人に責任があるかどうかになり、殺した人は悪いに決まっていて、逮捕されているけど、ふたりの間で、気持ちの通いあいはあったと思うからだ。
まるで異星人のように扱われているが、人間には、殺したいと言う気持もあるからだ。
昔の儀式みたいに綺麗な子どもをイケニエにするということもあったではないか。
儀式をひとりでしたのが、サカキバラ君ではないかと思うのだ。
だからといって、正当化はできない。大事なのは、人間にはああいうことをしでかしてしまう可能性まであって、人間の歴史はそういうものを加えないと理解できない。さらにいうなら、きちんと腹をくくっておかないと、またどこかの子が新たな手を考えついて、また新しい悪さをやらかす、やらかしているからだ。どれだけの人が悲しんだだろう。腹をくくって生活するのが、悲しいかな大人のつとめであるが、僕には子どもはいない。でも僕はいつまでたっても人間が怖い。怖さの感覚も大事かもしれない。

いじめは喧嘩ではないから両成敗とはいかない。ふと思うのは、いじめられた方にも問題があるという考え。
直感的に、何かを言い当てている。しかし問題は誰にでもある。
いじめは軽いゲームみたいなものから色々あるが、これも一種の人間関係だと僕は思う。つまり、相手があってお互い影響を与え合いながら作り上げていくものだ。
僕の場合も、一緒に遊んだりしながら、結果は弟が蹴られたり、僕は突き飛ばされて骨折したりした。
もともと弟をなくしてぼんやりしだした頃から目をつけられていた。
どっちが悪いかをいうよりも、誰もがひとりで悩んでいることがあって、僕のクラスは荒れていた。今も僕の被害者意識はなおってない。
特に十才くらいだったから、一人というものに目覚める時期だ。そこで集まって何かをやらかすというのは、みんな不安だったのだ。(続く)


散文(批評随筆小説等) いじめ1ーサカキバラ君について Copyright 石川和広 2005-09-06 17:50:42
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