いじめ2ー「いじめられた者にも原因がある」という言葉について
石川和広

いじめというくくり方には正直疑問を覚えるほど色んな方法があみだされているが、いじめ当事者にとっては、あの何ともいえない生暖かいような、それでいて凍りつくような、ずるずるとしていて、はっきりした妙な仲間感は、他の言葉では言い表せない。
卒業文集にも書いた。正直恨んでいくことでしか解消できない何かがあって今でも自分の気持ちに寄り添うのは苦手だ。恨んでいると言うより裏切られた感じ。でも相手が転校してしまったから、今どうしているのか、そもそも覚えているのか、今なにしているのか。

そこでなぜ僕にという気持ちは消えない。いじめられると、怒りが内向するというか、誰に向けて良いかわからなくなる。うまく怒りが表せなくなる。自分が悪かったのかもという気持ちと悪くなかったという気持ちが色んなもやもやや気持ちのギクシャクになっている。
僕は最近ではフラッシュバックに襲われなくなったが、人間関係はへただ。
もともと世渡りの前に、一人ぼんやりすることが多い。これは弟が亡くなってから、何か生きることについて色々考えてしまうのだ。

いじめられたほうにも何かがある。自分では気づかない何かが。同時にいじめたほうは、形はいろいろあるけど臭いを感じ取ったんだろう。遊びだというが、それにしては手が込んでいる。結論はないが、実はなんでいきているんだろうという感じが、ヒマによって増幅されていく感じ。僕はもう恨むことは止めている。許したというのとも違う。奇妙な思い出で、被害者意識というか、関係に敏感になっている。
実は今日投稿されたチアーヌさんの詩が、書く事の刺激になったのだ。
僕はこの作品に出てくる人は、怖いかもと思った。そう正直に告白しておこう。
これは僕の反射みたいなもので、刺さってくる感じなのだ。そこに共感も反発も覚えながらポイントを入れた。ポイントなしでコメントをするのは嫌だった。僕のコンプレックスに刺さってくる作品も「よい」作品だからだ。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48230

>病むのが普通で
>壊れたほうが
>美談
>そういう世界で
>誰かの都合のために
>生きたくなんかないから
>平気な顔して
>さらっと言うよ
>酷いこと

昨日「僕の世界は海になって」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48173
という詩で自分が障害者になったことを書いた。だから
正直自分のこといわれているような気がした。というか、僕が不徹底に障害を美化している可能性がぬぐえないところにささってきた。これは一種の関係づけすぎかもしれないけど。
そして自戒を込めてポイントを入れた。
しかし、平気な顔してというところに、一種の無理を感じないでもない。平気なら、わざわざ
平気な顔しなくても平気だからだ。このフレーズの前段を受けているのは、あきらかに生きることの重圧だ。というか、僕が味わったのとはちがう苦しみだろう。
>酷いこと
というのも、底を味わった過敏な精神が感じる酷さであろう。
僕はポイントを入れた。それは、こういう作品から発する悲しみの大きさからであった。僕は正直こうでない言い方で詩を書きたい。そういう触発のされ方をした。触発されるのはいいことで、僕は示唆される作品にはポイントを入れるから入れた。
正直やせ我慢しないほうがいいよといいたくなるのだ。しかし、そういうとこの作品からは、
無視されるだろう。しかし、そこまでえぐりだしているのもいいことだ。そして、そこで行き止まりである。そういう頑なさの像が浮かぶ。芸術は精神の暗い部分にも目を向けるものだからそれでいい。

「いじめられたほうにも原因がある」とは、道徳観念からいえばチアーヌさんの言葉を使えば「酷いこと」である。しかし、それは真実に近い。しかし「酷いこと」は何かの反動から出てきたものである。「原因」というからおかしくなるので、「いじめたほうにも、いじめられたほうにも、そして周りにも事情があり、こういう事態になった」と言うのが近いか。しかし、いじめには、どこか解決しようとすると、道徳観念が揺らぎ、不安になり、どこかに原因を求めるのだ。それは、誰しもが置かれている条件である。
いじめは「道徳観念=いじめは悪いことだ」をがたがたにする。そこで、警察を学校に置けばとかの話もあるが、そういう話も思いついたことがあるが、ここで負けてはならない。人はいじめることもある生き物だ。というか、「酷いこと」はだれでも仕出かしてしまうというかしたくなる時もある。なぜしてはならないのと思うときもある。そういう前提がもっと共有されねばならないのだ。
それだけで、大分変わると思う。
あとは、学校の問題も大きいが、いじめはどこの世界にもあるもので、ちゃんと、起きたことから目を背けずに、丁寧に事情を確認していく作業が必要だ。
しかし、最近「いじめられた」と思い込んで爆発物を投げ込んだものもいる。いじめは精神のドラマであり、そこでは「個」は溶けている。
しかし、思い込みは、生きていく上でつきまとうものだ。僕も被害者意識につきまとわれていたし、今もある生き癖のようなところがある。しかし全ての悪は思い込みから来るのかも知れず、それは生きる条件でもある。
チアーヌさんのところで書いたように、自分と違うものを認める気持ちが大切かもしれない。


散文(批評随筆小説等) いじめ2ー「いじめられた者にも原因がある」という言葉について Copyright 石川和広 2005-09-06 21:47:38
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