異常な時代に対する最終弁明 —または、直観の疾走者
岡部淳太郎

 タイトルから察せられるように、これは僕の書いた「異常な時代に抗する言葉」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=45141)から巻き起こった反論と論争、特にケムリさんの書いた「異常な時代の演出家は誰だ」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=45580)とそのコメント欄での発言に対する答です。答になっているかどうか、はなはだ心もとない部分もありますが。
 正直、それぞれの反論に律儀に答えているうちに、精神的に疲弊してきました。ひとつひとつの反論、特にケムリさんの文章を読んでいると、僕の意見に反論する人と僕との間では永久に意見が噛み合わないままで、ずっと平行線のままのような気がしてきます。僕は僕の考えを変えるつもりはないし、それはケムリさんを初めとする反論者の人たちにしても同じでしょう。これでは互いの主張を言い合うだけで、その挙句に揚げ足取りのように相手の文章のささいな欠陥をつつきまわすだけの不毛な泥仕合にならないとも限りません(僕としても、ケムリさんの文章は僕の文章に対する反論なのに、何で元になった俺の文章にリンク貼ってないんだとか、コメント欄で一箇所俺の名前間違えてる、論争相手の名前を間違えるとは何事かとか、揚げ足取りたい部分はいろいろあるのですが)。なので、これ以降、この文章も含めて僕の主張に対する反論は受けつけません。何か反論してきても黙殺します。前記のように、正直疲れたというのも、理由のひとつです。こんな不毛な論争に時間を費やしている暇があったら、その熱意を詩作に傾けた方が良いんじゃないかと、自分にも論争相手にも言いたくなることもありますが、自分の立場を明確にするためにも、何かしらの文章を残しておくのは決して無駄なことではないと思いますし、僕があの文章を投稿してからもう二週間以上経つので、もうそろそろ何か書いておくべきかなとも思いました。
 「異常な時代に抗する言葉」(以下「抗する言葉」と略称)はとても単純な文章です。その単純さを極限まで推し進めて言えば、「いまこの時代の中で、自分なりのやり方で良い詩を書きたい」と、たったこれだけのことを言いたくて書いた文章です。その「いまこの時代」というのを「異常な時代」と翻訳してしまったがために、あれだけの反論が巻き起こってしまったのですが、正直、反論が巻き起こった時もいまも、「どうして?」という気持ちが拭えません。何だか変なところに噛みついてきちゃったな、という感じがしました。「抗する言葉」の中で本当に言いたかったのは文章の後半部にあったわけで、何でみんな文章の前半部にこんなにこだわるんだろう、この文章をちゃんと読んでもらっていないのではないだろうかとも思いました。
 現代を異常な時代であると認識することは自分にとってはごく当たり前の感覚で、わかりきったこと、誰もが承知のことという感覚でした。いわば至極当然の大前提として、書いてしまったことなのです(だからこそ、反論された時に不意打ちを食らったような感じがしたのですが)。ただ、あのような言い方、または定義づけをしたことは、少しばかり安易で不用意なことであったかもしれません。しかし、自分としてはどうしても現代を異常な時代であると認識しなければ済まないような感じがあります。その気持ちの裏には、散文「詩人の罪」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=34212)や「駈けていった」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=29831)「帰ってくる夏」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=45340)などのいくつかの詩で書いたような家庭内の不幸、または僕のこれまでの人生で味わってきた様々な困難があります。僕が現代を異常な時代であると認識する、その気持ちを突きつめていけば、そうした僕自身のプライベートな問題に行き当たってしまいます。僕がケムリさんの「異常な時代の演出家は誰だ」(以下「演出家」と略称)のコメント欄で更なる反論をしなかったのも、こうした僕自身のプライバシーに関わる問題に言及せざるを得ないと感じたためでもあります。言ってみれば、僕は時代や社会というものに対して自らを外側に置くアウトサイダーとして、生を潜りぬけてきました。少し注意深い人ならば、僕の書く詩の中に、淋しさとか怒りとかいった負の感情が、拭いようもなくこびりついているのがおわかりになると思いますが、僕は時代や社会に対してルサンチマンを抱いて、それを書くことの原動力にしてきたようなところがあります。そんな経緯があるので、僕にとって時代も社会も異常でなければならないのです。それこそ、思い切り単純なステレオタイプとして時代や社会を捉えているだけなのかもしれませんが、そうでもして自分の外側に大きな敵をつくっておかなければ身がもたないというのが、正直な気持ちとしてあります。世の中がおかしな方向に向かった時に被害者となるのは、いつでも弱者です。僕は自らもまた弱者であると感じるがゆえに、常に弱者の立場に立って物事を考えていたいのです。そのためには、「いまこの時代」を、ごくありふれたいままでと同じ普通の時代として認識してはいられないのです。
 さて、ケムリさんは「演出家」およびそのコメント欄で、しきりに異常な時代の根拠とかデータとかいったことを求めています。それに対して僕は、これは自分の直観に基づく感覚であると言っています。ケムリさんは更に反論して、「裏づけの無い感覚を以って社会を語るのは明確な『悪』です」とまで言い切っています。僕にはそれがどうして「悪」なのかさっぱりわからないのですが、僕は論理的思考が苦手な、直観思考型の人間です。このような言い方で相手の発言を断罪することは、発言の自由を奪うと同時に、一種の差別的思想にもなりかねず、非常に危険で、むしろそのような言い方こそ「悪」であると言ってしまいたくなります。論理的思考の出来ない直観思考型の人間は、社会について語ってはいけない、そう言っているのと同じように思えてしまうからです。そもそも大昔の偉大な宗教家の多くは直観で世界を捉えていたと思いますし、哲学者たちの中にも、少なからずそういったタイプの者がいたと思います。もし、本当に感覚で社会を語ってはいけないのならば、彼等の思想はまったく成立しないということになりますが、そんな馬鹿な話はないでしょう。
 データとか根拠とかいっても、そんなものいったいどこにあるんだという気がしますが、別に僕が「抗する言葉」の中で言及した犯罪だけにとどまらず、現代の日常にはデータや数値にならないところで異常な事態が頻出していると思います。それこそ日常の些細な部分に(公共の場所でのマナー違反などが、一番目につきやすいものですが)、数え切れないほど発生しています。そうしたものは犯罪に至っていないぶん数値化することも出来ず、すべてを数値やデータに置き換えて語ろうとする人にとっては存在しないに等しいものなのかもしれません。しかし、こうした日常の些細な部分にこそ、時代の異常さが現れていると感じます。それはもう一目瞭然で、それこそ当然のこととして現れてしまっています。別に統計上に現れるものだけがすべてではありません。日常の中に潜む異常さ、それこそ異常な時代の本質なのではないでしょうか。
 以上で言いたいことのほとんどは言ってしまったような気がしますが、最後にいくつか。ケムリさんは「演出家」のコメント欄の中で「ケツを拭うのはいつも若者たち」というような意味のことを言っていますが、それはちょっと違うんじゃないかと思います。確かに大人たちは新しい事象にまつわる不備を若者たちのせいにしたがりますが、二十歳前後の若者たちの多くが社会人として自立していない以上、時代のケツを拭うなど、まず不可能でしょう。もし、誰かに時代のケツを拭う役目を負わせなければならないとしたら、それは僕のようないい年をした大人に負わせるべきです。ケムリさんは「演出家」とそのコメント欄の中で、ご自分が若者であることを年上の世代である僕とさかんに対比して語っていますが、僕はこの問題を「大人対若者」という図式で捉えたくはありません(どうもケムリさんはそう捉えたがっているような節がありますが)。僕自身、年は重ねていても、まだまだ未熟な子供に過ぎないという部分もあります。僕にはむしろ、これは直観思考型人間と論理思考型人間の対立だと思えます。直観思考型の人間は対象についての検証という作業を経ないで、いきなり自分が本質であると思ったことを口にします。論理思考型の人間にはそれがたまらなく不思議で、またいらだたしく思えるのでしょう。だからといって、直観思考型人間に「データを示せ」などと迫っても無駄なことです。直観思考型人間は論理やデータを越えたところで発言するし、また、そういう発言の仕方しか出来ないのですから。
 また、ケムリさんは同じく「演出家」のコメント欄で「感覚論で語れるほど世界は甘くはない」と言っていますが、それこそ論理思考型人間の考えに過ぎず、僕のような直観思考型の人間にとっては、世間も世界も宇宙も、みな感覚で語ってしまえるものです。逆に僕に言わせれば、すべてを数値やデータで割り切れるほど、世界は都合よく出来てはいません。すべてを論理やデータで割り切る態度に、僕は一種の淋しさを感じます。そこまでこちこちに割り切らなくても良いのにな、という思いがあります。僕は直観思考型の人間として、自分の思ったことを一瞬にして掴み取ります。それは良いとか悪いとかの問題ではなく、ただそのようにして疾走するように言いたいことの方に向かってしまうのです。
 現代を異常な時代であると思わないというのは、逆に言えばものすごく幸せなことではないかと思います。僕のように、日々いやな思いをして過ごさずに済むわけですから。現代を異常な時代であると思うのなら、それも良し。思わないのなら、それもまた良し。僕はそのどちらの考えも一概に否定はしません。問題はその先、いまこの時代の中で、各自いかにしてより良い生を生きるか、ではないでしょうか。そうした個人の生がつながって、時代や社会が少しでも良い方向に行けばいいのではないかと思います。



(二〇〇五年八月)


散文(批評随筆小説等) 異常な時代に対する最終弁明 —または、直観の疾走者 Copyright 岡部淳太郎 2005-08-23 21:45:17縦
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