詩にとって 「新しいとは何か」
つきのいし.

 人と違ったことを見つけ出すことが、新しいとは限らない。
異色になることが、新色になることとは限らないと思う。

たとえば、ファッションで‘パリコレクション’というショーがある。
新しい服ばかりのショーだが、服自体が全くもって、
「見たこともない突飛な新しさ」を持っているかといえば、違っている。

 もし、そのショーに「全く新しいファッション」として、
裸のモデルが、犬を連れただけで出てきたとする。
それを見て、「なんて斬新!」と感銘を受ける人はほぼいないと思う。
(ひょっとしたら、いるかもしれないが、)

つまり、新しいコレクションでも、
今までの服とどこか似ている部分があって、
‘纏う’等のベースは失くすことなく、
−レースの素材が、アルミでできていたり、
−裾のカッティングが、今までにない裁断だったり、
−見えない部分の型紙から、真新しく仕立てたものだったりと、
服の存在・意味・標=significanceを元として、
その上に成り立つものなのだ。


−詩についての「新しさとは何か」−

私はここ最近、日々考えている。
潜在的にずっと意識していたけれど、気づいていなかった。
「新しい詩」について、
自分に問いかけることをしていなかった。
詩誌「詩学」のHPで、その文章を偶々見つけた時、
静かに衝撃した。 「新しい詩とは何か」

 先に述べたコレクションよりずっと漠然としている。
それでいながら、詩にも、どんなに漠然としていようが、
そのベース=(significance)が存在しているのかもしれない。


‘温故知新’という言葉がある。
古きを知り、新しきを知る。(ということです。と、ドランクドラゴンの塚地も言っている。)

 私たちは、どうしても時と歴史を刻んでいて、
人間は、詩人は、その中で現在まで、様々な作品を生んできた。
すごい作品も多々あったろう。
信じられない程の共鳴や、
自分とは違うのに、まるで自分の気持ちを表したかのような詩があった。

 そこに伏線がある。
そして現代、現代の詩上で、‘新しいとは何か’を何度目かにして改めて問うことは、
なんだか素晴らしいことだと感じた。
(今まで、新しい詩、と口にしたことは何度かあったが、深く意識していなかった。)

 その伏線は、とても豊かな地層のようだ。
私達も、そのひとつになる。薄くとも太くとも、残る。
 そして、これまでの伏線は、全く堆積されたものなのだ。
今から同類の‘土’を積もうと、同じであっても‘時’や‘質’が重なることは無い。
貴重な土として被さっていく。その担い手になる。


‘詩’という形なき型紙を元にして、
今後、どのような文体を、心象立体的に裁断していくのか。
‘新しさ’は、その過程に、きっと生まれてくるのだと思う。

 そして、その詩層が、時を経て、現代含め後世の人の目に触れた時に、
また「真新しく」なるのかもしれない。

 新しさとは、生まれて死ぬことのない証、と思う。

だから、みんなで(描きたい人よ、)心豊かなイメージを描こう。
詩によって人と人との間に生まれ続ける‘感性の享有=新’を目指そうと、
そう願い、私も筆を取るのだ。


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散文(批評随筆小説等) 詩にとって 「新しいとは何か」 Copyright つきのいし. 2005-08-14 17:13:01
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