詩と作者と名前
つきのいし.

(詩と作者)

私が詩とつながることはいい。
私が詩とつながらなくてもいい。
私=詩でも、私≠詩でも。
また、
作者=詩でも、作者≠詩でも。

ただ、詩の「作品」を、作者本人に結びつけることだけに
固定観念を持った時、
 詩自体の持つ「創像力」を失う可能性がある。

「何気なく聞いているラジオは、
実は人に想像力を与えている。」と、
とある婦人雑誌で読んだ。

人はラジオを聴きながら、その背景やDJの人となりを
自然と想像している、とか。
その通りだ。
そう言うと、ラジオのDJがリスナーのハガキを読んでいる時に、
「○○さんは、こういうイメージでしたけど、
 この前、スタジオを覗いたら、全然違う感じの人でした。」
 と言っていた。

詩の紡ぎだした、詩という「作品」だけを見て、
こちらが様々な想像を働かせたり、
その作品から臭う、真理や真意・意図・イメージを
想像することは素晴らしい。
ただ、詩=作者は、
もちろん作者あっての「作品」だが、
その作者に先入観を持って、その詩を読んでしまえば、
その作品は元より、自分自身の想像力も狭めてしまうのではないだろうか。
日常での、「思い込み」に近いのかもしれない。

自分が他者を否定した見方で捕らえてしまうと、
自分は、その他者の可能性を見出すことが出来なくなる。
「他者を見ることは、自分を見つめることだ」と
よく言われているが、
つまり、他者をシャットアウトすれば、
自分の視野や感性も狭められてしまう気がする。

「作品」だけを、純粋に見つめることは大切だ。
でも、作者を付帯して読むことが、悪いという意味ではない。
もちろん、いろんな作者の背景や趣味や嗜好、人生が、
その作品に、より深い共感や共鳴やイメージを呼ぶこともあるからだ。

たとえば、美術館に行って絵を見て感動した時に、
その作者をつくづく調べて気に入らなかった時、感動した作品を否定してしまうのは、
自分の感性にとっても、良くない気がするのだ。

極端なことを言うと、
その作品の作者が、
もし自分が個人的に好まないタイプの人だったとしても、
その作品にすぐ、結びつけることは避けたい。
「作品」は「作品」として単体でも生きているんだ。



(詩と名前)

インターネットの詩サイト等の中で、
作者が名前を変えることを嫌う人がいる。

私は名前を変えたからといって、
「作品」が変わることはないと思う。
また、名前を変えたことで、その作品が良いもの見られるとも思わない。
人によっては、
何かから逃れたくて名前を変える人もいれば、
何かの錯覚を故意にもたらそうとしている人もいるかもしれない。
サイトの、規定に反するものは駄目だと思うが、
基本的に、自由であっていいと思う。
「名前を変える」ということ自体に執着する事はないと思うのだ。
前に述べた、(詩と作者)のことにつながるが、
これも、「名前を変えた=自己の感想が変わる」のは、浅くなってしまう感がある。
気まぐれで、名前を変えている人もいれば、
名前を変えることが楽しくて変えている人もいるかもしれない。
何か新しいきっかけを、名前を変えることから始めようとしている人、
自分のなりたい名前が、よく思いつく人、
名前にも、何かを込めている人、
いろんな名の人がいていいと思う。
 (余談だが、次長課長はどんな名前に改名するのだろう。。)
もちろん、「名前をよく変える人は嫌い」という意見はあっていいのだ。
ただ、先に作品を見た後に、その作者の元名を知って、怒ったり、気が変わるのは、
自身の感性にもったいない気がするのだ。(でも、人の好き嫌いに拘る人もいて当たり前か。。)

名前を変えても、「作品」は「作品」で、
その向こうにどんな人がいようとも、
自分のイマジネーションを、ただ豊かに培いたいと思うのだ。

帰りのバスが、坂を登る頃に、丁度青空に雷雲がくっきりと、
くもぐもと、くろぐろと、もぐもぐとしてきた。
それを、雲が作ろうが、空気が作ろうが、人が創ろうが、
地球が作ろうが、宇宙人が作ろうが、蟻が作ろうが、
そんなのはどうでもいいと思う。
ただ、その景色や風景が、
胸の中で、咲いたら。
その美しさだけでいいと思うのだ。




散文(批評随筆小説等) 詩と作者と名前 Copyright つきのいし. 2005-08-11 17:52:56
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