書く動力 7
Dr.Jaco

無限の言い換えを続けることが言葉に公転を与えるのだろうか。それはいくら何でも
思い上がっとんのとちゃうやろか。楕円の中心を求める問題というのを思い出した。
勝手に求めて勝手に果てる行為をマスターベーションと言うが、そうでは無いケース
を未だに信じている。

 ・・・しかし、発見という出来事をあとからふりかえるのでなく、前方にそれを見
 通すのであれば、発見という行為は個人的であり、不確定であるかに見える。それ
 は問題についての、つまり、かくれたなにものかにたいする手がかりをあたえるか
 に思われるあちらこちらの断片についての、孤独な内感で出発する。それらは、ま
 だ知られぬあるまとまりをもった存在の、諸断片をなしているように見える。この
 漠然とした見通しは、個人的な執着へと転化されなければならない。なぜなら、我
 々を悩ますことのない問題は、いかなる問題でもないからである。人を動かす力を
 もたなければ問題は存在しない。我々を鞭うち、導くこの執着は、だれも語ること
 のできないあるなにものかにたいする執着である。その内容は定義することができ
 ず、不確定的であり、厳密に個人的である。実際、このなにものかに光のあてられ
 る過程が発見とみなされるであろう。なぜなら発見とは、既成の事実に明示的な規
 則を適用するだけでは達成されなかったと考えられるからである。真の発見者は、
 可能であり許されうるという以外になんの手がかりもない思考の大海原を、海図を
 あてにすることもできずに航海しなければならない。真の発見者の想像力は、この
 大海原をわたりきる。彼は彼の想像力のこの大胆な壮挙にたいして、賞賛を受ける
 のである。
 (マイケル・ポランニー 「探究者たちの社会」
    『暗黙知の次元』佐藤敬三訳 紀伊國屋書店刊,1980に収録)

これは未だに私のマスターベーションの「オカズ」であり、楕円の中心たる古い現代
思想。氾濫し過ぎた言葉に、今や言葉を得るのではなく真似ることの反復しかできな
い私に、慰めを与えるフレーズである。「だれも語ることのできないあるなにものか
にたいする執着」は今も詩を書く人たち(全員とは言わないが)の中に巣食う欲望だ
と思う。

私が自分の皮膚になぞらえた「境界」が「言葉さん」の住処である。皮膚の外界に私
が初めて見た訳の分からない異物「シーツの皺」は指先の皮膚を透過して私を拡大さ
せ、というか、分からない以上、漂着させたのだ。それは「これ何だろう」といった
素朴な感じのノスタルジーではないのだ。その漂着が起きた時、私自身が皮膚を透過
したと感じたのだから、そこに「境界」を感じ取った。つまり、「シーツの皺」は私
自身が透過した皮膚の象徴なのだ。
と、言えるかもしれない。
訳の分からないものを見てしまった時、見えたのはその途中でふっと感じた「言葉さ
ん」の影だったのである。それが私の他愛のない執着なのだ。

私は詩を書く中で、訳の分からないものを「書き表す」という接近法をとらずに、そ
のメカニズムを俯瞰しようとする方法を選んでいる。というか、巧拙問わずそれしか
できない。だから常にモチーフが現れながら、現れる過程ばかりに重心が移ってしま
うのだ。「書こうとする自分」を書くという、あまり綺麗で無い詩になる。
何よりも分からないからだ。

語調が荒くなってきた。



散文(批評随筆小説等) 書く動力 7 Copyright Dr.Jaco 2005-06-28 00:03:09
notebook Home 戻る  過去 未来