音楽と精霊たち②
おぼろん

4.退屈な仕事


 結局、葉子が次に就いたのはやはり退屈な仕事だった。中学校の非常勤講師。それを選び取るのにも数カ月かかった。弟は姉が再び音楽の仕事に就けることを喜んだ。ただし、葉子にとっては素直に喜べないものがある。

 たいていの大学では、学校の教職員になるためのコースが用意されている。「学校の先生になる」ということは、就職に失敗した時のための非常線のようなものだった。もし、プロの音楽家としての道に精通出来なくても、学校の教師になれば食べるのに困ることはない。多くの学生たちはそんな風に考える。それは葉子も同じだった。

 ただし、葉子の場合は教師陣の覚えもめでたかったせいか、すんなりと大学講師の職を得ることが出来た。才能があってもコネがない、コンクールでの受賞経験がない、そういった理由で大学に残れない学生は大勢いる。葉子の場合も、単に幸運が味方したと言って良かった。

 中学校での非常勤講師の仕事は、一言で言えば単純労働のようなものだった。生徒たちに音楽を教えることは大学の講師時代と同じでも、そのレベルは格段に違っていた。何よりも、中学校の生徒たちの多くはプロの音楽家になることを目指していない。時にはとんでもない質問が飛んでくることもある。

「先生、ドレミファソラシドはどうして『ド』から始まるの?」

「先生、五線譜ってなんで線が5本なの?」

「先生、モーツァルトとバッハはどっちがすごいの?」

 単純労働というのは、得てして時に困難なこともある。そんな質問をされると、葉子はどんな風に答えれば良いのか分からなくなる。ただなんとなく、おざなりな答え方はしてはいけないような気がしていた。

 だから、

「今度までに調べておくね」

 と言って回答を保留する。それでも、生徒たちはなんとなく納得してくれる。大学の学生たちと違うのは、音楽の技術を上達させたいのではなく、先生にとにかく何かを答えてほしい、そんな欲求に基づいて質問を発している、というところだった。

 あるいは、

「そう決まっているのよ」

 とだけ答えても、問題はなかったのかもしれない。ただ、その時には「この先生は使えない先生」という烙印を押されただろう。いくら糊口をしのぐための仕事とは言っても、それは葉子には納得出来なかった。自分では意識していなくても、「かつては音楽家を目指していた」というプライドが葉子にはあるのかもしれなかった。

 弟は未だに、「姉はきっと音楽家として成功する」と考えているらしかった。その道は葉子にとってはあまりにも遠いものであるような気がした。

(今から音楽家ですって? いくら年齢は関係ない時代だからって……)

 結局のところ、葉子は音楽に触れていさえすれば良かったのだ。大学時代に「自動人形」と呼ばれることがあったのも、そのためだ。葉子にとっては、芸術家や音楽家というのはごく普通の仕事の一つに過ぎなかった。演奏家になることと学校の講師になることとは、彼女にとっては大差のないものだった。オリジナリティーなどなくても良い。ただ、葉子は音楽に触れていたかった。

 郊外にある彼女の家(今は自分だけの家)まで帰ってくるには、市営の公園の中を通って来なくてはならない。その道は、雨や雪が降るとぬかるんだ。それが葉子をますます気づまりな思いにさせる。「仕事には満足していると言っても、今のわたしはどこか呪われているような感じがする」――時々そう思うことがあった。

 トーベ・ヤンソンの童話には、フィリフヨンカという女が出てくる。フィリフヨンカは音楽家であるスナフキンに憧れて、ハーモニカを吹いてみようとする。それはもちろん、素人の演奏だ。自分は、どこかこのフィリフヨンカに似ているようなところがあると、葉子は思った。誰もが隠し持っている才能が、自分の場合にはたまたま表に出てきてしまっただけなのだ。



5.「幻想曲とフーガ」


 それは、

「先生、モーツァルトとバッハはどっちがすごいの?」

 と聞かれた日のことだ。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ。音楽家のフルネームを知っている生徒は意外に少ない。一般人は、と言い換えても良いだろう。

 J・S・バッハと言えば、真っ先に思い浮かぶのは「ブランデンブルク協奏曲」だった。オルガニストを目指していた葉子にとっては、バッハのオルガン作品のほうが親しいのではないか、と思われるかもしれない。しかし、葉子の大学時代の友人は「ブランデンブルク協奏曲」を好んで聴いていた。最初はその良さが分からなかったけれど、葉子は次第にその曲に惹かれるようになっていった。

 今では、バッハと聞けば「ブランデンブルク協奏曲」の甘い旋律だけを思い浮かべる。それはどこかロココ調のようで、バロック時代の音楽としてはふさわしくないようにも思われた。もっとも、この偉大な作曲家の膨大な作品には、様々な技巧や意匠を取り入れた作品が入り乱れているのだけれど。

 そう。そして今、葉子はオルガンの前に座っている。気づまりになった時によくそうするように、服をすべて脱いで下着だけの格好になっていた。身体が内部から火照るような気が、なんとなくしていた。

(本当に、バッハとモーツァルトではどちらがすごいのだろう)

 答えようもない問いに、葉子は振り回される。

 葉子はオルガンの前に座って、「トッカータとフーガ」を弾き始める。そして、「なんとなく違う」と思う。それは今の彼女の気分に合うものではなかった。あの時代、楽器と言えば弦楽器や管楽器、オルガン、そしてピアノではなくてクラヴィーアが主流だった。

 ただし、古い時代の曲を古い時代の楽器で演奏する、というこだわりに葉子はあまり関心を持っていない。ピアノで演奏出来るのであれば、ピアノで演奏してしまえば良い。こういうところも、音楽学校である種の教師たちから嫌われる要因になったところだろう。

 葉子は本棚から様々な楽譜を引っ張り出してくる。ベートーベンでもない。モーツァルトでもない。ましてや、フォーレでもドビュッシーでもラベルでもなかった。オリヴィエ・メシアンやジョン・ケージの楽譜もぱらぱらとめくってみたが、今の彼女の気分に合いそうなものはなかった。そしていつか、譜面を完全に暗記している曲に戻ってしまう。

「トッカータとフーガ」の次には、「幻想曲とフーガ」を弾いた。これもなんとなく違う。そして、「前奏曲とフーガ」。意外なことに、この旋律は今の葉子の気持ちに不思議に合致していた。気づまりな仕事、気づまりな街。バッハは教会に所属して作曲活動をしていたが、中には気乗りのしない仕事もあったのだろう。

(『前奏曲とフーガ』はどうなのだろう?)

 葉子は考える。その時、なぜか家じゅうの物たちが頷いたような気がした。

(えっ?)

 と、葉子は思う。

(物が物を言うはずがない)

 葉子は周囲を見回す。「今のあれは何だったのだろう?」と。

「前奏曲とフーガ」はそれほど長い曲ではない。およそ10分くらいで演奏が終わる。そして、曲の出だしから何かが始まり、そして終えてしまっているような曲だった。「トッカータとフーガ」が驚きをもたらすための曲だとすれば、「前奏曲とフーガ」は落ち着きをもたらすための曲、そういう言い方をすることも出来そうだった。

 そして、また周囲がざわつく。

(いつの間に、この家は幽霊屋敷になってしまったのだろう?)

 葉子は怪訝に思う。もちろん、幽霊や霊魂の存在など葉子は信じてはいない。この家に住んでいても、父親や母親の気配は感じたことがなかった。だから、この異様な気配は葉子の思い過ごしのはずなのだ。



6.小さな者たちの声


 音楽は一度始められたら、当然続けられなくてはいけない。途中で終わってしまう音楽というものはない。それは、作曲で芽が出なかった葉子には痛いほどよく分かっていることだった。しかし、この「前奏曲とフーガ」は初めから「終わり」として始まっているように思える。

「前奏曲とフーガ」は、バッハの長い創作人生の中では中期~後期に当たる時期にかけて作られた曲だ。つまり、壮年にさしかかった彼が作り出した曲だと言える。バッハがこの曲を作曲した時の年齢は、もちろん今の葉子の年齢よりも上だ。

(この曲の中には、まだわたしが経験したことのない思いが込められているのだろうか?)

 と、葉子は思った。

(前奏曲って、何に対する前奏曲なのだろう……)

 答えはもちろん、「フーガ」に対する前奏曲なのだが、それとは違った意味が込められているようにも感じられた。まるで、バッハは「自分の人生はこれからだ」と考えて、この曲を作ったようにも思われる。フーガの部分も、「トッカータとフーガ」に比べるとずっと穏やかだ。

 壮年にして人生はこれからだと思える、だからバッハはすごいのではないだろうか。「前奏曲とフーガ」はBマイナー、つまりロ短調の曲だ。モーツァルトのように若くして亡くなった人間には作り出せないものが、そこにはある。葉子は、生まれて初めてバッハに対する畏敬の念を抱いた。

 部屋のなかの「ざわつき」はまだ収まっていなかった。葉子には、人形たちが喋っているかのように感じられる。(今は自分の)家の中には母が残していった人形やぬいぐるみがいくつもある。たいていはもらいもので、母自身はそうした物を嫌っていたが、幼かった葉子にとってはそれらの存在はまぶしいものだった。

(そう言えばこの子たちも、数十年の時間を生きている……)

 人形に生命があるならば、の話だが。

「あなたの出す『ソ』の音、とても良い感じがするな」

 突然、人形たちの一つが口を開いていった。葉子は驚いた。最初は幻聴か幻覚だと思った。でも、そうではないらしい。

「僕もそう思う。葉子の出す『ソ』の音が良い」

 今度は別の人形が話し始める。「やはり、わたしは狂っているのではないらしい」と、葉子。この家が幽霊屋敷であってもおかしくはなかったが、肝心の幽霊たるべき父や母の面影はどこにもない。話しているのは人形たちだった。家具や本までが、これに呼応して何かを喋っているような感じがする。

「何を驚いているの?」

 と、最初に口を開いた人形が言った。それは洋服箪笥の上を離れて、今ではいつの間にか葉子の弾いているオルガンの上に移動している。

「あなたも曲を作ってみたら良いのに!」

 人形は再び口を開いて言った。今度は驚くのではなく、冷静に、「わたしに作曲なんて出来るはずないよ」と葉子は考えていた。

(この屋敷が幽霊屋敷でもべつにかまわない)

 そう、葉子は考える。一人だけで気づまりに生きているよりもむしろ……と。

 弟には何と言うべきだろう。

「この家、怖いのよ。人形たちが喋るの」

「わたし、この家に帰ってきて良かった。この家はまるで生きているような感じがする」

 答え、というか言葉はいくつか用意出来た。そして、いつの間にか自分が即興の曲を演奏し始めているのに気づく。「『前奏曲』に続くものが、もしもフーガでなかったら?」と考え、葉子の紡ぎだすメロディーはどんどん変化していく。葉子はいつの間にかト長調の即興曲を演奏していた。

「そうそう、そういうのが聴きたかったの」

 人形の誰かが言った。あるいはぬいぐるみかもしれなかった。その言葉には不思議な温もりがある。そして、葉子が今演奏している曲にも。――普段の仕事で感じている気づまりな思いが、自由に曲を奏でることで払拭されていくような気がした。この感情は、大学での音楽教師をしていた時にも感じられなかったものだ。

(今、わたしの周囲ではたしかに何かが話をしている……)


散文(批評随筆小説等) 音楽と精霊たち② Copyright おぼろん 2023-12-22 13:47:20
notebook Home 戻る  過去 未来