第一章 主観と映像
宏大な界が突然開ける
視界右上奥に
空の濃く暗らんだ青が微かな裏光りを帯び沈黙して在る
これは、氏の最初期の詩である「VISION.02」(*1)という詩からの引用です。
人が批評を始める時、何から始めれば良いでしょうか。すでに物故した詩人であれば、その代表作から始める、という手法があります。これは常道であり、王道でもあります。ですが、今現在生きている詩人についてはどうでしょうか。彼、あるいは彼女には「代表作」というものが決まってはいません。おのずと、批評の試みは手探りということになります。
ですが、わたしはひとつの方針として、その詩人の最初の作、あるいはその詩人の詩集における最初の作、というものから始める、という手法を提案したいと思います。なぜなら、その詩人が最初に書く詩、あるいは最初に選んだ詩とは、その詩人の決意表明に他ならないからです。
この考えに至ったのは、何も時間を省きたいという理由からではありません。文学とはひとつのミームであり、文学に携わる者とは、自ずと文学の歴史を率いていく定めを持っています。作品は読者のためにのみあるものではなく、作者のためにもあるものです。ある詩想が生まれ、そのガイドラインに従って作者は作品を紡いでゆく……そうしたことは、文学の歴史上無数に繰り返されてきた事柄です。写実主義しかり、象徴主義しかり、超現実主義しかりです。
この詩についての論評を加える前に、この詩には以降の詩人の作品のエッセンスすべてが凝縮されて現れている、ということを言いたいと思います。ひだかたけし氏は、現代詩フォーラム(*2)というウェブサイトを根城として、作品を発表してきた詩人ですが、その現代詩フォーラムに残されている一番古い詩が、この「VISION.02」という作品です。そして、この作品群は、「vision.09」という作品まで続きます。しかし、「VISION.01」という詩は残されていません。なぜでしょうか?
現代詩フォーラム上の氏のプロフィールによれば、「アップしてからどうにも対象化出来ていないと気付いた詩は、基本、容赦なくデリします」と記されています。ここで、「対象化」というのは「客体化」ということでしょうか。あるいは別の意味があるのかもしれませんが……ここでは、深く探らないことにしましょう。「生まれながらの詩人」である氏にとって、読者はあって無きがものであるからです。
フランスでは印象主義の時代、ドガという一人の画家がいました。ドガを印象派に含めるということには、いささかの議論も生じると思われますが、わたしがお伝えしたいことは、そういったことではありません。ドガはある時、ひとつの賭けを持ち出されました。それは、こういったものです。「明日までに、これこれの画家の作品を模写して持ってくること、それが別の画家が描いた模写よりも優れていれば、賞金を支払おう」と。──ドガはそれに応じ、見事な模写を持って翌日皆の前に現れました。賞金を獲得したのです。
そんなドガは、詩人であるマラルメともつながりがありました。マラルメは、印象主義の先人の一人であるベルト・モリゾという女流画家と交流があり、彼女が催すサロンにドガとともに参加していました。マラルメも読者を拒むような詩を多く紡いだ詩人ですが、ここではドガについて。ドガは、その晩年にはあらゆる作品を人に見せず、一人アトリエにこもって創作を続けた画家です。誰一人、友人ですら、その作品を見る機会はなくなりました。ひとえに、ドガの創作とは、己自身の画業との格闘であったのです。
ドガの例を持ち出したのは、ひだかたけし氏の作品にもそうした傾向が見られるからです。いつ何時、この作者は雲隠れして、あらゆる作品を読者の目から遠ざけるとも限らない。そんな切迫した情熱が、氏の作品からは感じられます。その時、読者はあるいは裏切られたという感情に駆られるかもしれません。ですが、詩人の作とは、詩人を野放しにしてこそ生まれ得るものです。もし、この天来の詩人が自らの詩を隠そうと考えた時、わたしたちにそれを追い求める術はありません。その点も、ひとつのスリルなのです。
さて、この「VISION.02」という詩ですが、この詩は生活に根ざした詩──生活詩とも呼び得るようなもの──と、形而上学的な詩──形而上詩とも呼び得るようなもの──の中間に属する詩です。いいえ、中間と言うには語弊があるでしょう。その一体化(この詩人が、その後のすべての詩において追い求めていく詩想)が現れている最初の詩です。……正確に言えば、わたしたちが現時点で判断し得る最初の詩、です。
「宏大な界が突然開ける」という壮大な宣言で始まった詩は、次のような一節で突然変化します。
その巨大な棒状イボ雲ゆっくり揺れるすぐ脇に
別れた妻と会えなくなった小学五年の長男が、こちらをぼんやり見ながら並んで佇立している
(大地には何人もの人々の、立ったり座ったり走り回ったりそれぞれ思い思いのことをしている黒い影)
「別れた妻と会えなくなった小学五年の長男が、こちらをぼんやり見ながら並んで佇立している」というのは、明らかに生活に根ざした言辞です。それが、最初に置かれた「宏大な界」とつながっている。このような手法は、宇宙的とも言うべきものでしょうか。ですが、ここではわたしなりの解釈に任せていただければと思います。
氏は、「宏大な界」という宇宙的な言辞から初めて、自分の生活に降り立つ。──しかし、これは本当に降り立ったと言えるものでしょうか。あるいは、この詩人は生活に降り立つことを拒んでいるとも取れるのです。ここに、この詩人の孤高のプライドがあり、詩的本質もあります。彼は……自らの作品を「詩」と呼ぶでしょうか。かつて、詩人の宮沢賢治が自らの作品を「心象スケッチ」と呼びならわしたように、詩人はこの詩を「詩」とは呼ばないかもしれません。
では、「詩」とは何でしょうか? これは根源的な問いであり、日本の詩人を古くから悩ませてきた問いでもあります。手元に資料がないので、具体的な引用はしませんが、中世、平安時代の詩人たちは「あはれとは何であるか?」という歌を多く残しました。日本という国の文学では、その初めから「詩想」というものがあいまいであったのです。「あはれ」とは詩の本質であり、本来は作品外で追求すべき事柄です。しかし、日本の歌人たちはその作品のなかで、そのことを問うてきた──そこに、日本という国の文学の歴史があるのです。
ですが、ひだかたけし氏のこの作品を、わたしは「詩」と呼びましょう。それは、来るべき詩人たちのためでもあり、余計な手間を省くためでもあります。その手間とは、「詩とは何であるのか?」という問いに正面から対峙することです。わたしは、詩に関する本質論は退けて、この詩人が「生まれながらの詩人である」という答えに帰結させたいのです。それは、詩人本人が望むところでしょうか? それはわたしには分かりません。ただ、この一個の詩人が文学という一ミームに貢献している、ということを思うばかりです。
実は、わたしは氏の詩の一節を引用するだけでも、かなり圧倒されています。この小論の題名を「読むことのスリル」としたのには、それなりの理由がありますし、それをここまでの氏の詩の引用で、少なからず感じ取っていただけたのではないでしょうか。それは、是です。ある詩群を読むとき、それら詩群に圧倒され、読者として敗北するということも、正当な読書の方法であるからです。
どうも、わたしは本筋から外れる傾向があるようです。この章のタイトルは、「主観と映像」ということでした。ですが、わたしは文学史や芸術史に字数を割いてしまいました。このことは、氏の詩が、テーゼ以外のなにものかをもたらすものである──ということで弁明させていただきましょう。
氏のこの詩が生活詩でもある、ということは氏の詩における「主観」を示しています。そして、「宏大な界が突然開ける」という表現は、氏の詩における「世界観」を表しています。しかし、詩において「世界観」を示すということは、どのようなことでしょうか? 「世界観」とは、作者の哲学的な知識と感性から呼び出されるものであり、その表明には形而上学的なビジョンの表明が不可欠になります。わたしは哲学には詳しくありませんが、スピノザのように数学(論理学)的な叙述に問いと答えとを求めるのも、ひとつの方法です。スピノザは、「神はいる」ということを数学的に証明しました。あるいは、そう思い込みました。彼がその論説におしまいにつけた言葉は、つねに「QED(証明はなった)」という言葉です。あるいは、このひだかたけしという詩人は、初めにQEDを提示し、表現はその持続に過ぎないのではないのか? とも思うのです。
「VISION」とは、明らかに主観に属する言葉です。ここで、哲学を持ち出すまでもないでしょう。人とは、主に視覚(映像)をもって物事を判断する存在であり、嗅覚をもって物事を判断する蛇のような動物とは異なります。このことは、人が視覚(映像)の奴隷であることをも、意味します。視覚に障害のある人たちは別として、わたしたちにとっては視覚こそが最大の情報源であるのです。それをタイトルにすることは、わたしたち読者に対して、一種の喧嘩を売っていることをも意味します。すなわち、「この詩を読み解け」と。
わたしたちは、この挑戦に屈服すべきでしょうか。あるいは迎合すべきでしょうか。挑戦すべきでしょうか。──その選択は、読者に任されています。すなわち、「この作者を信用するか、否か」というテーゼを、わたしたちは突きつけられているのです。……わたし自身は、たとえそれが敗北をもたらすものであったとしても、今は作者に迎合しましょう。この「VISION.02」という詩に圧倒されることを、わたしは望みます。
この小論が単なる解題であれば、わたしは氏の詩的言辞を詳細に鑑定してみせるのですが(鑑定してみせるとは、大仰かつ傲慢な言葉ですね)、わたしは氏の詩の解題を望みません。なぜなら、わたしが紡ぐひとつひとつの言葉、それらが、氏の詩を読み進めることによってもたらされたものであるからです。わたしには、言葉少なに論評してみせること、以外の手法は与えられてはいません。批評とは、本来その作者の作品そのものに与することをのみ、その指針とすべきなのです。わたしもその「批評」の本質に従いましょう。
やはりわたしは、あっけに取られるのです。この「VISION.02」という詩は、7連16行の詩ですが、ここに引用した6行だけでも、作者を紹介するには十分であると。この詩が目指す哲学的なテーゼを、わたしはあえて追い求めません。そこには美しい詩的言辞があり、読者を無限の境に誘う。作者の個人的な生活観は消え失せ、読者は「詩」の示す限界的な世界へと誘われる(この詩のすべてを引用することが出来れば、わたしとしてはこの論評を書くことも楽だったのですが)。これはやはり、一読者としてのわたしの敗北です。引用以上に、彼の詩について巧みに語るものはない、と。
この「VISION.02」という詩では、主語が限られています。主語が現れるのは、次の最後の一連のみです。
そうして私は胸底深く穿たれた空洞を抱えながら
この意志持つ宏大な世界の光景を
只只圧倒されて観続けている
これは、「結語」というのには足らない言葉でしょう。それとも、「結語」と言い切ってしまうには、言葉足らずに過ぎる表現でしょうか。「私」は「只只圧倒されて観続けている」、この時点で、作者は初めて「主観」を提示しました。それまでの叙述は、叙述に過ぎないのです。いや、本当にそうでしょうか。「VISION.02」という題名を付けた時、彼はこの詩が主観と世界観との融合である、ということを意識しなかったでしょうか。たとえ、題名が後からつけられたものだとしても、題名というのは、その詩のすべてを指し示すものです。彼がこの詩を書き終えた後に、どんなカタルシスを得たか、あるいは得なかったか。それは、ネット上における「詩の投稿」という本質論、人間論にも関わることです。今は時間がなく、その詳細にまで踏み込むことはできませんが、この詩人が「時間を超越した詩を書いている」ということを思うとき、「鶏が先か、卵が先か」という問いは無用のものであると思うのです。現に、この詩人は「vision.09」という詩まで、この詩群を書き続けました。「VISION.02」という詩は、あらゆる意味で発端に過ぎないのです。
あれは何だ?あれはなんだ!
私は圧倒されつつ開放されるー情欲を、木漏れ日射す森の岩の上で吐き出された情欲を引きづり、貪婪で計算高いおまえの手を握りつつ私は進む
「VISION.03」(*3)という詩で、氏は早くもこう言います。氏は主観を信じつつ、主観ではないものへと進もうとする。これは、人間というものを、ひとつの共通した存在へと還元しようとする試みだと言えます。その姿勢──アティチュード──については、わたしという一個人では納得しがたいものであると言えます。しかし、詩人の試みとして、一個の詩の語り手が、全人類を等価なものだと表明しようということは、ひとつの高貴な思いです。この詩人は、自らの人生経験をベースとして、詩という全人類共通のものへと、その表現を昇華させようと試みる。その決意、あるいは傲慢に対して、わたしたちは否を唱えることは出来ないでしょう。そこに詩の本質があり、詩が単なる一個人の意思表明にはとどまらない、という所以もあります。
「主観と映像」──実は、こんな副題に対する答えとは、容易なものです。映像は主観によって生み出される。たとえ、それが「培養槽の脳」や「カルテジアン劇場」のようなものであったとしても、わたしたちは脳が生み出す一個の映像、すなわちビジョンによってしか、答えを得ることはできない。これは人間の限界を示すものでもあり、可能性を示すものでもあります。……このような短絡的な解答を、作者であるひだかたけし氏はきっと嫌うことでしょう。「自分の文学は哲学ではない」と。
そのために、わたしは別の答えを見つけなければなりません。この「VISION.02」という詩は何を示しているのか? と。読者は、その言葉の初めから、圧倒されても良いのです、「宏大な界が突然開ける」と。これは、この詩における宣言であり、後に続く文章を率いていくための導入です。読者は、ただただ魅了されても良い。「この詩は良い詩である」と。その証明は、詩自体が果たしてくれることでしょう。
さて、わたしはこの第一章を成功したとも言えますし、失敗したとも言えます。ひだかたけし氏の詩における「主観」と「映像」について、わたしは十分に説明しきれなかったからです。ですが、ここでひとつの弁明を許していただければと思います。つまり、わたし自身は一人の読者として、氏の詩が文学史上残るに値するものであることを示したい、そのためには多少の脱線は厭わない、というわたし自身の姿勢があるからです。詩が畢竟詩論であることに他ならないように、批評というものもすべからく批評論にならざるを得ないものです。そこから、当の対象である「作者」に導けるかどうか、それは批評の巧拙に帰するものです。わたし自身は、ひだかたけしという詩人を「生まれながらの詩人」であると証明したい。そのためには、その詩を紹介しさえすれば良いのです。
この章の最後になりますが、「時間」というテーマに限って言えば、この作から、詩人の姿勢というものが見えてきます。すなわち、時間というものは、現在を境にして、過去と未来とが分断されているものだと。このような姿勢は。サルトルの初期の哲学にも見られるものです。サルトルにおける「時間観」は、その人生において変化していくのですが、ひだかたけしという詩人にあっては、サルトルの初期の思い、「時間というものは対自によって、個別の瞬間としてのみ捉え得るものだ」、という考え方を踏襲しているように思えます。
簡単に言えば、「時間」というのは「現在」というものであり、「現在」以外の時間などは存在しない、という姿勢です。詩人自身がそう言ったわけではなく、わたしは、この詩人の作を読み解く過程で、そのような詩人の思い、志向を強く感覚するに至ったのです。これは、現代詩の作者における限界でもあり、挑戦でもあります。「時間」というものをどう取り上げるか、こうしたテーゼは実存主義が哲学のメジャーになって以来、文学の世界でも多く取り上げられてきたテーマです。「時間とは何か?」「時間と詩作品との関係は?」──しかし、このような議論を持ち出すことは、この小論の主題を外れることでしょう。
さて、この小論がひだかたけしという詩人の評価を上げることになりますかどうか……そのことには、(いささか自信がありませんが)わたし自身の力量も試されています。
*1)
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*3)
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