終戦記念日
ホロウ・シカエルボク


わたしは古めかしい歩兵銃を抱えて焼け野原に立っていた。敵と味方の死骸がアザラシのようにそこらに転がって膨らんでおり、鼻腔の奥や喉に針金を突っ込まれて掻き回されているかのような猛烈な臭いが漂っていた。夜のようだった。けれどもしかしたらなんらかの理由で太陽が隠されてそんな様相を作り出しているのかもしれない―たとえば爆炎なんかで。どちらにしてもそこに居るわたしには正確な判断は出来なかった。この上なく疲弊して、怒りと哀しみが混濁した奇妙なカタルシスのある感情が胸中で暴れるのを感じながらただ立ち尽くしているだけだった。どれだけそうしていたのだろうか。ふとなにかしら、小さな音を聞いたような気がして数度、辺りを見回すと、視界の端に微かに動くものが映った。わたしは恐怖に囚われ、そのせいで慌ててそこに向かって銃を撃った。おそらくは人間であろうそれは、着弾の瞬間高圧電流に触れたみたいにビクンと震え、突っ伏して動かなくなった。わたしはそれでもしばらく銃を構え、狙いをつけたままで居た。死んだふりをしているだけかもしれない。こちらが隙を見せたら撃ち返されてお終いかもしれない。過度な緊張が異様な集中を生み出していた。狙いをつけながら、耳では周辺の音を聞いていた。今の銃声でこここに生存者が居ると気付かれただろう。他に、誰かがここで生きていると仮定したら、ということだが。生き残ったのが自分だけとは考えられなかった。そんな虫のいい話があるわけがない。でもわたしの思うことが、戦場の常識と噛み合うかどうかは例によってわからなかった。わたしは戦争になど行ったことがないのだ。やがてわたしは銃を下ろした。標的はどれだけ待ってもピクリとも動かず、わたしが背中を撃たれることもなかった。わたしは長く息を吐いた。もう一度生きるための呼吸だった。どうやら本当にわたしだけが生き残ったらしい。あるいは他にも生きているものは居るのかもしれない。弾を撃ち尽くしているものや、生きてはいるけどまったく動くことが出来ないものなど…どんな理由があるにせよ、アクションを起こせないのならそれはもう死んだと同じことだった。命一つ分軽くなった銃の感触が、わたしをどうしようもない気持ちにさせた。けれど、そんな気分に浸るのはきちんと生き残ってからのことだった。わたしはゆっくりと、さっき撃ち殺したもののところへと歩いた。死体と瓦礫を踏みつけ、そんなものの中へ転ばないように気をつけながら、自分の罪を確認するために歩いた。どうやらここはもともと街だったようだった。いったいどこに居るのだろう。初めてそんな疑問が頭をもたげた。けれどきっと、それを知ることは出来ないだろう。こうなってしまっては、街の名前などもうどうでもいいことなのだ。歩いている間も、周囲には気を配っていた。戦場においての決まりごとはひとつだった。必ず生き残ること。全員がそんな思いを持って銃を構えるのだ。純粋な狂気だった。純粋で莫大な狂気だった。そしてわたしは自分がたった今撃ち殺したもののもとへとたどり着いた。それは少女だった。一二か三か―そのくらいの。人を殺すことなど考えたこともないような、美しい肌をした少女が、後頭部から撃ち抜かれて、廃墟の天井灯のごとく右目をだらりと垂らして死んでいた。

大量の汗をかいてわたしは跳ね起きた。ここ数日ばかり、ずっとその夢を見る。始まった瞬間にそれだとわかる。何度かは逃げ出そうと試みた。すべて無駄だった。その夢からは決して逃げることが出来なかった。ベッドから降り、カーテンを少し寄せて外を見た。まだ明け方のようだ。キッチンに行って水を飲み、深呼吸を何度かした。水をもう一杯汲み、キッチンの椅子に腰を下ろして、緊張した肩を少し揉んだ。なぜこんな夢を見る?実体験ではない。わたしは戦争など知らない。先祖の記憶?あるいはどこかで、兵士の霊でも拾ってきたとでもいうのか?原因を探ろうとすれば、オカルティックな話ばかりが浮かんでくる。わたしはオカルトに興味は無かった。あれは、なにも終わらせまいとする連中が好んで取り扱うトピックだ。水を飲み干してシャワーを浴びた。寝直す気にはなれなかった。万が一、あの続きを見せられるようなことになったらイラつきはさらに増すだろう。

始発の電車で職場に赴き、終電の直前まで仕事をして帰りつく。コンビニエンスストアで買った食事を済ますと、もう眠気が襲ってくる。動画サイトで古い映画を探して、ベッドで眺めているうちにいつの間にか眠ってしまう。そんな生活がもう五年は続いていた。妻は愛想を尽かして二年目に去っていった。離婚届の処理すらわたしは仕事の一環のように行った。あやうく窓口で、またよろしく、なんて口走るところだった。それほど働く必要があるのか、妻を筆頭に、いろいろな人間がそう言ってわたしを休ませようとした。けれどわたしがいないと先に進まないことが多く、休んでしまうと結局自分が余計な苦労をするだけだった。最後に休日などを迎えたのはいつのことだったろう?まだ妻帯者だったころのことだったような気がする。口座にはもうしばらく遊んで暮らせるだけの金があった。ということは金が目的で働いているのではないのだ。わたしはケージの中で回し車を回し続けるハムスターのようなものだった。本能のようなものに従ってそれを続けているのだった。だから休まないことは苦ではなかった。わたしは会社に評価され、次第にランクアップしていった。ランクアップすると余計に、わたしが居なければ進まない話が増えた。これは死ぬまで続くだろう。わたしにはもうそれがわかっていた。けれどそれもやはり苦ではなかった。目的の無い人生など考えたくも無かった。自分はそこでそれをし続けるのだ。それがわたしの生きる目的だった。それでなんの問題も無かった―その夢を見始めるまでは。

夢がわたしに与える影響など無いと思っていた。というか、そんなものを気にしている暇など無かった。仕事量は眠っている間にもどんどん増えているのだ。どうしてこんなにわたしがやるべきことがあるのかわからなかった。おそらくは水の流れのようなものなのだろう。たくさん流れ出ていく場所には、たくさん流れ込んでくるものなのだ。しかし、わたしは確実にその夢に蝕まれていた。それに気づいたのは夢を見始めて半月ほど経ったころだった。気が付くと書類をタイプする途中で手を止めてぼーっとしていることが増えた。始めのうちは自分で気づくだけだった。おそらく、それほど長い時間ではなかったのだろう。はたから見れば、なにか考えているのかな、というくらいの。しかし、日が経つごとにその寸断は度を越えて行った。何度か同僚や上司に注意された。少し疲れているんじゃないのか、と、上司は気を使ってくれた。わたしが常日頃仕事に入れ込んでいることを知っていたからだ。休みを取ったらどうだ、と、彼は言ってくれたが、わたしは突っぱねた。わたしが休んだらなにも動かないじゃないか、とつい言い返してしまった。少しイライラしていたのかもしれない。こんなになにもかもスムーズに動かないのは、初めてのことだった。上司も少しむっと来たらしい。わかった、しかし、次なにかあったら強制的に休ませるからな、仏頂面でそう言って立ち去っていった。それから数日後、わたしは職場で気を失い、救急搬送された。

極度の過労、医師はそう告げた。極度の過労。「極度」の「過」労…なんて馬鹿げた言葉だろう?わたしは反駁した。疲れてなどいない。医師は静かにわたしを制止した。疲れているんです。あなたの意思がそれを認識することを拒んでいるだけなんです。いいですか、これは紛れもない過労死の前兆です。無期限で休みを取ってください。いろいろなことが当たり前に感じられるようになるまでです。ご自身でそれがわからないなら時々ここにいらして下さい。付き添ってくれた上司は、ほらみろ、という顔をしてわたしを見た。わたしは初めて混乱していたのだと思う。ただぼんやりと彼を見つめ返すばかりだった。

家に戻り、貰った薬を飲むと異様なほどの睡魔に襲われた。首根っこを太い腕でベッドに押さえつけられているかのようだった。わたしは一度寝返りを打っただけで深い眠りの中に陥った。その眠りは十時間近く続いた。夢の中でわたしは、ひとりの兵士の一生を生きた。生まれてから成長し、反抗期を迎え、短い恋をし、戦場で少女を撃ち殺したあと小銃で自分のこめかみを撃ち抜いて死んだ。死ぬときには気が狂っていた。ゲラゲラともの凄い声で笑いながら一瞬で死んだ。死んで、地面に倒れてからも笑い声は続いていた。わたし自身が夢を見ながら笑っていたのだった。わたしは悲鳴を上げて枕を放り投げた。枕はサイドテーブルの置時計をなぎ倒してフロアーに落ちた。薬を飲んでは眠り、夢を見て、笑いながら目覚め、酷く荒れた。数日後には叫びながら自室の壁に頭を打ち付けていた。額が破れ、だらだらと血が流れた。なぜだ?なぜこんな目に遭わなければならないのだ?この夢がなんであるかなんてどうでもいい。夢は夢に過ぎない。そんなただの夢が、どうしてこんなにわたしを蝕むのだ?どうしてわたしにこれまでずっと続けてきた暮らしを続けさせてくれないのだ?わたしは壁を殴りつけた。壊れたのはわたしの拳だった。

わたしはそれ以来荒れることはなくなった。ただ茫然とすべてを受け入れるだけだった。最小限の食事をして薬を飲み、夢の中で何度も殺して、死んだ。そのうち目の中に血が混じり始めた。どこを見ていても目の端に赤い血が流れるようになった。わたしはそれすらも静かに受け入れた。骨折の痛み止めと睡眠薬の相性は抜群で、わたしは起きて眠って薬を飲むだけの限定された命と化していた。その他のことはなにもしたくなかったし、もしやろうと思ってもまともに身体を動かすことは出来なかったであろう。そんな毎日が続くうち、わたしの身体をゆっくりと巣食って行ったのは、憎悪だった。わたしは夢を憎み、自分を憎み、仕事を憎んだ。そのどれかに仕返しをしたいと思うようになった。仕返しが可能で、成果を自分で確認出来るのは仕事しかなかった。わたしは闇サイトを利用して銃を何丁か手に入れた。そうしたサイトの撲滅に動いている人間を個人的に知っていた。大きな秘密を抱えているものはいつだって、誰にも話しちゃいけないよと言いながらほんの少しそれをおすそ分けしてくれるものだ。わたしがそれを悪用することによって彼に迷惑をかけるかもしれないと思ったけれど、いまはほとんど会う機会もなくなっていたのであまり気にはならなかった。休職してひと月半が過ぎたころ、わたしは出社時と同じ格好をして、パスを使って職場のあるビルに入り、サイレンサー付きの銃で仕事場の人間を一人残らず撃ち殺した。数十人は居たけれど実にあっけない作業だった。通勤ルートを移動している時のほうがやたらしんどかった。思っていたよりもすっきりとはしなかった。よく考えてみればどうしてこんなことをしたのだろう、というような感じだった。同僚たちの死体を踏みつけながらオフィスを出て、誰にも止められることもなく自宅に戻った。

薬を飲んで眠っているうちに逮捕されたらしい。目が覚めると病室に居て、刑事らしき男がベッドの足元側の角を陣取るようにパイプ椅子に腰かけてこちらを睨みつけていた。
「わたしたちが君を逮捕してから四日経った。」
彼は先にわたしの疑問を晴らしてくれた。治療をしながら取り調べが始まったが、わたしにはよくわからないとしか言いようがなかった。刑事は―西脇というらしい―もう一人の若い刑事と交代でわたしを見張った。せめて部屋の中じゃなくて廊下に居てくれればいいのに、とわたしは思ったが、わたしがそんなことを希望するわけにもいかないことは理解していた。薬のおかげで眠れないということはなかったが、寝入りばなとかそういうものを他人にさらすことはもの凄く抵抗があった。わたしは次第にストレスを溜めて行った。ある朝目が覚めたらわたしは拳銃を持って西脇を撃ち殺していた。西脇は転寝でもしたのだろうか?なにも知らないという顔のままで死んでいた。すでに警官や刑事に囲まれており、銃口を向けられていた。わたしはとりあえずふらふらと後ろに倒れ込んでもう一度眠った。

目を覚ますとトイレとベッド以外何も無い真っ白い部屋に監禁されていた。精神病院だろう、とわたしは思った。このままここに死ぬまでいるのだろうか。おそらくは監視カメラで行動を把握されているに違いない。わたしはしばらくの間大人しく過ごした。驚くべきことに診察すら扉越しだった。食事を通すための小窓がドアの下部にあり、そこから処方された薬なども渡された。そういった場所から抜け出すにはどうすればいいのか?わたしは古い映画で見たことがあった。まさかそんな記憶が役に立つなんて考えもしなかったけれど。ある日わたしは悲鳴を上げながら自分の指を噛み切り、痛い痛いと泣いた。大勢の大人が慌てて飛び込んできた。私は両脇を二人の男に担がれ、処置室へと連れて行かれた。処置が始まった瞬間に医者を蹴り倒し、暴れたいだけ暴れた。机の上にあった鋏を使って、何人かを刺した。二人死んだ。

わたしは例外的に、裁判を待たずに死刑宣告を受けた。これは手に負えない、というわけである。わたしのような人間に対処することは、現代の法律では無理なのだろう。最後に食べたいものはあるかね、と聞かれ、にいっと笑いながら、「あんたの首」と答えてみた。牧師も看守も、目を閉じて首を横に振るばかりだった。



というわけで今、わたしは、袖が後ろで繋がった服を着て、頭に厚地の袋をかぶせられ、絞首台の上に立っている。袋はおそらく使い捨てなのだろう。新品の素敵な臭いがする。空調の音だろうか、シーンという音がずっと鳴っている。馬鹿みたいな表現だが、本当にそういう音がしているのだ。その他にはどんな音も聞こえない。わたしの心は静かだった。おそらくは別室で、運命のボタンを押す誰かが緊張しているのが感じられる。ただそれだけの世界。明確な意図を持った、ほんの一瞬の、静かで、何も無い。わたしは清々しい気分だった。もう夢のことなんてどうでもよかった。わたしは戦って、この場所を手に入れたのだ。それはわたし自身の勝利だった。憧れの場所をわたしはついに手に入れたのだ。




足元が、いま―。





                      【了】


散文(批評随筆小説等) 終戦記念日 Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-12-04 15:25:31
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