木切れ
岡部淳太郎

 七月四日、入院した。五十五年生きてきてはじめてのことだった。それまでは若い頃に酒の失敗で急性アルコール中毒で一晩入院したことがあるだけで、本格的な入院は初めてだった。いまも病室のベッドの上でこれを書いているが、どうにも奇妙な気分ではある。ついこの間まで一人の人間として社会の中に放り出されながらも何とか生きてきて、一人の詩人として偉そうに書いたり語ったりしてきたのだが、病気という一つの事象によってそれらが無効化され、意味のないものへと収斂してゆくのを感じてしまったからだ。そうすると、普段の健康な状態であってもそれらは意味があったのかということにもなってくるようにも思えてくる。普段の健康な状態の人々は、実はそれこそが虚飾であり、その奥に一歩足を踏み外せば無意味の穴に落ちこんでしまう、そんな危うさを元々秘めているのではないかと。
 今回入院したのは以前から調子が悪かった心臓がますます不調となり、それまでの動悸や狭心症の痛みに加えて呼吸困難の症状が出て来ており、自分でもさすがにまずいと思って自ら救急車を呼んだからだが、病院に担ぎこまれて医者から入院しなければならないと言われた時、目の前で緞帳がすーっと降りてゆくような感覚があった。それまで当たり前にあった日常は寸断され、見たことのない現実に旧知の友人であるかのようにじっと見つめられている。そんな感じに思えたのだ。
 そうして始まった入院生活だが、正直面倒だと感じることもあった。よくありがちな病院内のルールだったりするのだが、それらもすべてが病気を治して患者たちを再び元の世界に戻すために存在するものであった。元の世界とはつまり、病気とは無縁の広い社会である。逆に言ってしまえば、病院の内部は社会ではない。患者というそこに集められてしまった中途半端な状態の人々をもう一度健康という中途半端ではない状態にして社会に返す。それが出来ない患者には死が待っているだけだ。死もまた、中途半端ではない状態という意味では普通の健康な状態に似ている。健康があり、病気の状態があり、そして死がある。病院とはそのどちらかに振り子が揺れている場所であり、医者や看護士といったそこに勤める人々の力量や匙加減いかんによって、患者たちは健康か死、そのどちらの状態にも運ばれうるということになってくる(だからこそ、彼等の仕事は尊いのだとも言える)。
 さて、そんなこんなで入院していまも病室のベッドの上に横たわっているわけだが、いまの気分はまるで海岸に打ち上げられた乾いた木切れのようだ。この身そのものが動かない木切れのようなものとなって、かつて一本の樹木の一部として葉を繁らせ花を咲かせ、あるいは実さえ実らせた過去を思い描いている。そんな感じである。実際病院というのはそんな乾いた木切れのような人々が多く集まってくる。彼等の多くは老人であり、人が年を取ればそれだけ病気になりやすいのと同じように、年を取った彼等はどこか乾いている。それも理の当然だろう。人は若い時には活力があり何でも出来そうな気になるものだが、年老いるとそれもなくなり、精神的にはある種の諦念のような気持ちに支配され、身体の方は次第に健康を失っていってしまうものだ。年老いるということは、乾いた木切れのようになってしまうということでもあるのだ。しかし、そうすると、まだ五十五歳の私が乾いた木切れになるのは早すぎるとも言える。私はこの年でなぜ既に木切れであるのか? 私の葉は落ち花は枯れ、実は腐ってしまったのか? 私の体内の葉脈にはもうなんの水分も残っていないのか? 早すぎる渇き。その中で私が見つめるべきものは何か? 私はこれから先何をすべきなのか?
 おそらくそこにはなんの意味もない。私がこの年齢で心不全と診断されたのには意味などなく、ごくたまたまのことに過ぎないのだ。そのごくたまたまからなんとかして意味をひねり出すのが人間であり詩人であるということなのだろう。人が人生で遭遇する出来事の多くに意味などない。ただ、その人本人がそこに意味を見出したがるというだけのことだ。それならば、思い切りありもしない意味をひねり出してやろうではないか。それでこそ人であり詩人であるというものだ。
 私はいまのこの海岸に漂着した乾いた木切れのような状態に意味を見出そうとしている。同時に、そんな状況をゆっくりと噛みしめるように味わっている。病気になったから不幸だなどとは思わない。そうではなく、病気になって入院したということすらある種のイベントのようなものであって、そうであるならばそれをじっくりと味わうべきなのだろう。そう、私はこの初めての入院生活を味わっている。私は不幸などではない。いまいましい高血圧が私を打ちのめそうとしても、私は書けるしこの状況を味わうことが出来る。この非日常の感覚を確認することが出来るのだ。それから先のことは私にも他の誰にもわからない。私はきっといまの乾いた木切れのような状態を後から振り返ってそこに意味を見出したがるだろうが、それはいまの私ではなく未来の私に任せるべきことだろう。この先どうなるか私にもわからないが、私はいまの私を、いまここに乾いた木切れのようにして打ち上げられた状態の自分自身をしっかりと確認して見つめている。いまの私に出来るのはそれだけだ。



(2022年7月9日〜10日)


散文(批評随筆小説等) 木切れ Copyright 岡部淳太郎 2022-07-10 17:40:51
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