善良なる定義に関して
ただのおと

定義が転がっていく、上へ上へと。私たちはだから、全員で、その定義を責めなければならないと思った。なぜだろうみな共通して、定義がとんでもない罪を犯しているような気がしてしまったのである。だからといって、私たちがそのためにとりたてて互いに欠陥を主張し合い、補い合おうとする必要はなかった。私たちは必ず、先天性の欠陥をもっているのだから、あるいは先天性の欠陥をもっていなければ私たちではないのだから。あるいは、一つの欠陥をもたないことが、すでに私たちにとって欠陥であるのだから、私たちでない者など、もはやここには存在しえなかったのである。定義の更生のためにみな協力しようなどといって、わざとらしく手をつないだり肩を組んだりすることがなかったのは、そもそも私たちのなかに手や肩をもたない者が身近に存在していることを、みながみな、それぞれの欠陥を通して完璧に熟慮していたからである。
 私たちは、定義を責めなくても済む方法はないかと、あれこれ思案した。転がるものを追うときには、私たちも転がらなければ不平等になってしまう。しかし、上へと転がることが犯罪であるとするならば、私たちは彼を責めるために罪を犯してしまうことになる。そうなると、今度は、定義がその前を転がりはじめた何者かを追うために、転がりだしたという可能性にも考慮せねばなるまい。では、いっそのこと、彼らを認める法律を作ってしまうのはどうだろう。しかし、あるいはこんな場合も考えられるのではないか。
 もしも、定義の先天性の欠陥が、罪を犯すというものであったとしたら。定義が、上に転がっていくのを見て、私たちはもしや彼が自分を責めているのではないかと思ってしまった。その解決のために不正な法律を作ってしまったら、彼は自分の欠陥が不正に加担したことをより重大に責めてしまうに違いない。おそらく私たちが大罪としているのは、自分を責めてしまうことである。善良なる定義が、罪を犯しつづけることによって自身の欠陥を責めてしまっているという事実を、私たちは善良なる不正として赦していく必要がある。一方で私たちも、その不正を赦すことで不正に加担してしまう自分を、善良に責めてしまう存在であるが故に。(拙文「」より)


散文(批評随筆小説等) 善良なる定義に関して Copyright ただのおと 2021-02-25 16:36:38
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