9月30日雑記
道草次郎

 まずここに嗚呼、という感嘆詞を置く。他に良い感嘆詞を知らない。
もっと感嘆詞を学ぶ必要があるが鈍重なこの頭はそれを拒否する。こういう書き出しは、読む者の心を暗くする。そして、書く者の心に至ってはそれの幾らかは緩和されるが、そのことで何かが啓けるとか澄むということもない。ただ、なんとなく居られるというだけの話である。ここにこうして、居られる。じつに多くの憂鬱を抱える人がただ其処に居られない事を思うと、思わず胸苦しさを覚える。本当にこういった書き出しは、良くないばかりか、誰も仕合わせにしたためしがない。とにかく、こういう事を前置きに据えるのは意思の弱さの現われだ。などと真っ先に、愚痴の方が先にこぼれ落ちてしまう。

 そして、だ。
 嗚呼、救いは自然から齎されるのだなと、思う。それを言いたかった。こうやって外に出て、涼しい、いやすこし寒い風に吹かれていると、胸の混濁は僅かに絆され、何か不透明なものが夜のやさしさへと鞍替えする様を身にしんしんと感じる。
 日中ずっと、何をしていたか。銀行や幾つかの用事を済ませた切りで本当に何もしなかった。図書館へ行った。しかし、不穏な感情がずっと纏わりついて仕方なかった。図書館のトイレの洗面台の前に立ち、鏡の下に置かれている小さな鉢の万年草を長い事眺めていたら、小学三年生ぐらいの子供がいきなり入ってきて、一瞬目が合った。子供は何か見てはいけないものでも見てしまったかのような顔をして、そのまま引き返してしまった。
こんな田舎の図書館、しかも平日のトイレになどまず誰も入ってこない筈と踏んだのが間違いだった。なんだが自分が本物の狂人になった気がして少し恥ずかしかった。
 利用者の殆どが年配者か、そうでなければ若い母親しか居ないという眺めである。ケン・劉の『月の光』を借りて、『三体』で名を成した劉慈欣の表題作でもある『月の光』という短編を辛うじて読む。胡蝶の夢みたいな、面白いようなそうでもないような作品だった。近年の中国文学の隆盛は目覚ましいそうである。現代中国文学とどのような関係があるか不明だが、漢詩を読めたらどんなに素晴らしいかといつも思っているので、中国文学に悪いイメージはない。詩歌のコーナーを上から下までなめるように見渡す。万葉集を借りようと思っていたのに、なぜかやめる。古今にするか新古今にするか、迷い、それもまたやめる。芭蕉のまともな解説本を探すが、中途で疲れてそれもやめた。『長田弘全詩集』をつい借りてしまう。みすず書房だからだ。殆どそれだけの理由で。なぜか、みすず書房の本が好きだ。長田弘の詩を手本に詩でも書いみて、ひとつ現代詩フォーラムに投稿でもしてみようかという気を少しおこしかけている自分に気づき、そんな自分に嫌気がさす。尤も、長田弘みたいには書けないし、他の誰かのようにも書けないし、無論、現代詩フォーラムその他のネット上に存在する秀逸な詩群に匹敵するほどの詩を自分が書けるとは到底思えない。自分の詩心の無さには絶望している。しかし、この絶望にももうだいぶ前に飽いた。今は、ただ書くのみだし、書かぬならばそれまでの話だ。それでもこうしてたまに誰かの詩集を借りてきてしまうあたり自分も随分な俗物なのだと思う。うまい表現、直喩、暗喩、構成に満ちている詩がいかに多い事か。みんな、自分より立派にみえる。じっさいはどうか知れない。詩人というものに会ったことがないからだ。会いたいかと問われれば、別にどちらでもいい。自分はただ、詩を書いたり詩を読んだり、仕事をしようと考えたり畑を耕したり、たまに本を読んでみたり、子供に会いに行ったり、悩んでみたり不安がっているだけなのだから、別に誰かと会おうが会うまいがそれは変わらないのであり、つまり今の自分がこの自分である限りは、あまり事態は変わりそうにない。

 今日は主に二つのつまらぬ事を考えていた。

 一つは、誰もが「今」を生きるしかないという常識について。どういう事かというと、弥生の世でも、平安の世でも、江戸の世でも、こんにちの令和の時代においても、過去に生きる人はひとりもいないという決定的な事実のことを言っている。人には常に今ばかりが与えられいて、今に費やし今に躊躇うのみなのだ。過去はどこにあるか。杳として消えた過去は、もしかした未来にあるのではないか、など考えたりもするが勿論未来も当然ながら無いわけで、ないものにあるというのはどだいオカシナ話だ。今は喩えるなら、それは、ヌルリと掴み手を逃れる鰻だろうか。手に残る生臭さでやっとそれと分かった気になる何かだろうか。じつに妖しい代物ではないか。
 こういう事情を抱えながら生きていくということは、一体、どういう事かと思う。ところが、野に出てみれば芒は銀に波打ち野鳥は盛んに空を舞っている。ムクドリのギャーという耳障りな声もする。どうもこれを狂っていないというのは、やはり狂っているに相違ない。それほどのいきさつを、この世界は孕んでいる。このはからいは、じつに何たることだろうか。悠々閑閑、宇宙は夜になれば空に銀河などをばら撒いて手遊びに耽る如しだ。歴史とは常に現代史である、とはよく言ったもので、まったくその通りだと思う。歴史の断層を見てみればいい。そこには現代史ばかりの層が一枚また一枚と堆積している筈だ。しかもその一枚一枚がぬるりとした鰻で掴み所なく絡み合ってもいる。到底これは人間の扱える代物とは思えない気もする。やはり、歴史とは人心なのだと思う。人心の緊密な絡み合いだろう。それ以外に有り様が無いではないか。

 次の主題に移る前に少し今読もうとしている本の話を。自分はかねてから沢山の積読本を苦虫を嚙み潰すように眺め、暮らしてきた。それでも、本当に何冊かはちゃんと読みたいと願う本がある。それは数冊あって、そのどれもが殆ど哲学の本だが、第一には井筒俊彦『意識と本質』が来る。井筒氏は勿論言わずと知れた大家だが、文章が比較的平明でしかも美的でもあることから、他の哲学書よりずっと取り掛かりやすい。しかし、それは取り掛かりやすいというだけで、その内容が平易であるという意味ではない。この本を読むのは大変時間が掛かる。少なくとも自分の不十分な理解力では、一日二ページが良い所だろう。まったく、自分の遅読には絶望的な気分になるが、仕方がない。持って生まれた脳みそに今さら逆らってみても何の得にもならない。だから、一日二ページは読もうと思っている。今のところ、この計画が上手くいっているとは言えない。五ページ読める日もあればまったく読めずに終わる日もあるからだ。悔しいやら情けないやらむなしいやら、色々な感情の渦が毎日のように頭のなかを支配している。けれども、自分はこの本だけはよく読んでいけたらと思う。限られた好奇心と、限られた読書スピード、限られた時間を勘案すればそうした選択もあながち間違ってはいない気もする。それだけの本であると、今の所はそう思っているのだ。それが、少なくとも今の自分の支えとなり明日へとこの露命を繋いでいるのだ。無論、参考に読む他書は読むという範疇には入らない。それは、ただ斜めに見るだけの事である。精読をすることだけが、唯一の自分の救いであるという考えが、以前よりずっと大きくなってきたのはこれは自分の性質の当然の帰結であろう。人間はたぶん誰もが自分の持前の性質の上に色々なものを建設する。それは、その人だけのものだ。それは、本当に素晴らしいものであるに違いない。そう信じている。

 もう一つ考えた事。これもつまらない事だが、次のようなものである。自分はよく「自分はつくづくつまらない人間だ」と人に言ったり下手をすればネット上にもそれを放流してしまう癖を持つ。なぜそんなことをするかと考えた。どうも自分は「自分はつくづくつまらない人間だ」と言う時、決まっていつもその言葉の裏には自分は本当はつまらない人間ではない、という含みを持たせているようだ。本当に、自分がつくづくつまらないならば、黙っていれば事足りるだろう。何も人に喧伝しなくてもいいのだ。黙って黙って、苦しむか悶えるかすればよかろう。しかし、黙っていられないとはどういう事か。これは、色々考えたが、やっぱり苦しみたくないのだ。もっと言えば、「苦しむべきではない自分」であると自分の事を見積もっているのだ。この、「苦しむべきではない自分」が人に伝播すると、人はその傲慢さをすぐさま察知し、距離をとろうとする。この時の人の敏捷さは真に類まれなるものがある。なかにはその傲慢さを憐れみ、若しくは面白がる者もいるにはいるが(それはそれでその者の抱える宿命によりそれをするのだろうが)、大抵は、本能的にそれと距離を置こうとする。つまり、人の世は、自分をつまらない人間と言うような類の人間のことは容易に信じないのだ。なぜなら、そういった人間がいつかはその意を翻し、牙をむくであろうことを直感的に知るからだ。
 人は、永続性を希求する。基本的に安定を志向する。この永続性と安定志向が社会の根幹にはある。いつ豹変するか知れない人間はこの根幹のことわりに背く存在でしかないというわけだ。しかし、なぜ一個人がこの永続性と安定志向に背くことを言ったり、それだけはない、じっさいにそれを行なったりするのだろうか。それは、宇宙の根幹が非永続的であり不安定であるからに他ならない。宇宙の中に社会がある。ちょうど混沌の中にコスモスがあるように。しかし、一人の人間と宇宙との関係はどうか。宇宙の中に人間がいるのか、それとも、人間の中に宇宙があるのか。これは本当に難しい問題だ。哲学はそれを扱うのだろう。しかし自分にとって尤も驚くべきなのは、自分がつくづくつまらない人間だと言いたいという衝動に先立って宇宙が既に成立しているという事である。よもや衝動とともに宇宙が現出したとはさすがに思えない。まあ、これもよくよく考えてみればもしかしたら哲学の主題になり得るのかも知れないが。

 もう一度はじめに立ち返って考えてみる。「つくづくつまらないと言わない人間」についてもう少し考えてみようと思う。
 これは、先ほど言った通りに存分にそれを耐えるであろう。そして苦しむであろう(尤も耐え得ぬ者も苦しむが)。この人は、では社会に対してどのような態度を持つだろうか。問題は、耐える人が、耐えざるを得なくなるに至るまでのいきさつを探ることからしか見えてこない。
 その人はなぜ耐えるのか。
 一つ、前述した通りの傲慢さを抱え持つものの社会に排除されるのを恐れるからやむなく消極的にそうする。
 一つ、前述した通りの傲慢さを抱えながらも耐えることそのこと自体に積極的な美徳を見出す。
 一つ、そもそも思いの丈を言い放つ社会とそこに住む人々に絶望していて、はなから意図的に対象から排除している。

 問題は、三つ目だ。それに絞って考えを進める。
 なぜこの耐える人は対象に絶望したのか。それはおそらくかつてはこの人も自分のつまらなさを社会(それを最小の構成単位である家族や友人としても差支えない)に言い放ったのであるが、それに斥けられた苦い経験を持つからだ。このことは裏を返せば、未だ自分のつまらなさを声高に宣っている者は、じつは社会をどこかで信じているということになる。それに、甘えているということになる。それは、こう言えるだろうか。社会に対し抱くイメージによってその者が言うか黙るかが決まる、と。つまりは、その者の内的な経験、常日頃の思考、もちろん生来の性質、そういったものの総合により、その者は、叫んだり黙ったり色々の行いとするということか。
 ところで、物事は予め決まっているのかどうなのか。端緒はどこにあるのか。それは、誕生にだろうか、それとももっと前にだろうか。或いは今を過ぎ去るこの瞬間の一つひとつが端緒なのか、どうなのか。
なぜこのような事を言うかというと、それが決定論と自由意志の問題と不可分だからだ。何者かが何者かである場合、常に何者かに先立つ前提条件がなければならない。当然のことだ。誰もが誰かの子供であるし、あらゆる行動はそれを取らせる因子から発する。その因子を何に定めるかは様々に考え方があるだろうが、とにかく、因子のあることに疑問を差し挟むことは出来ないように思われる。そもそも、何者かがそうあるのは、なにゆえか。なにゆえかという疑問を抱えながらにも生きねばならないこの我々とは何なのか。何者であるかを分かろうとする意志と、現に生きていくことの間にどのような関係性があるのか。それは相即不離のものなのかどうか。・・・・・

 今はまだそういう事の考えの端緒にすら辿り付けていないという自覚のみがある。しかし、自分は予備的な知識を一切を心から拭った上でこの思考を続けていくことしかできない。本当に自分に必要なのは、自分自身が納得できる道を見つける事だけなのだから。人は人の道を往くだろう。どうか皆それぞれの道を往くのが良いと思う。そう思えばこそ、なぜか人の事がより確かな存在として感じられてくる。明瞭な単純な自己のみが確かである気がしてならないのだ。そして、そういう自己のみが他者への寛容を存分に発揮できるように思えてならない。
 生きている限り、今はまだ、と言う事ができる。これは、本当に素晴らしい事だ。本当に、これだけでもう素晴らしく十全としたい所だが、そうしてしまうといかにも大きな魚を逃してしまいそうなそんな杞憂もないとは言えない。
 なるほど、人間の思考はこのようにして人間を落ち込ませたり、救ったりする。つまり、コトバも同じであり、それは魔的であると同時にメシアでもある。人がコトバを獲得して以来、繰り返しくりかえし行ってきたことの突端に誰もが立っている。下には眼も眩むような大渦。天には宝石をばらまいたような銀河。そういうところに、人間は立っているのだ。

 話はまったく変わるが、前の仕事では金属メッキを頻繁に扱ったのでそれはもう手荒れが尋常でないほど酷かった。辞めてから手はみるみる回復した。あの頃は何をするにも手が痛くて、精神が手に集中していた。難しい事なんて一つも考えられなかった気がする。人間なんてものは、それだけのものだ。一つでも痛いところや気になるところがあると、忽ちだめになる。今こうして少なくとも痛みや際立った体調不良に悩まされることなく生活できていることには、感謝しなければと思う。何か苦痛を強いられないと人はついつい今のこの状況が当たり前だと思って考え方が狭くなる。考え方が狭くなっては自由な思考ができない。そんな簡単な話だ。

 と、ここまで書いてみて、ひどく項垂れている。じつに、じつにつまらない。なぜこういったものを晒すのか。理解に苦しむ。しかし、こう書いていながらにして、すでに投稿を目論み、タイトルまで考えている始末だ。こんな、手慰みのような雑文にもならぬようなものを果たして誰が読むというのか。しかし、自分はやはり誰かにこの気持ちを伝えてみたい。それだけは確かだ。それに嘘はない。たとえどんな幼稚なやり方でも、この際やり方などそんなことは重要ではない。とにかく、自分は生きたいのだ。それだけなのだ。自分は絶望したくないのだ。自分はなんとかやっていきたい、それだけだ。生活をして、勤めを果たしたい。いろいろの勤めを、だ。人間には、ほんとうに色々な勤めがある。これを果たすことが人生であろう。自分はまだ人生に参画していない。これは、ひじょうに、不本意なことなのだ。それをよくよく忘れまい。
 あらゆる思考はそれ自身で独立して存在していないし、あらゆる現実生活もそれ自身で独立して存在していない。見定める位置を探す必要があるのだ。その時間が幸運にも与えられたと自分はどこか迂闊に信じている。しかしこれは、贅沢というものだろうか。自分には分からない。この不安はいったい何かと思う。憂鬱症のせいか、そうでないのか。もはや判然としないし、おそらくそんなものは一生判然としないだろう。日々はこうして、とにかく、疾走してゆく。この疾走を眺めながら自分は、最初の気持ちに立ち返る。つまり、自然に。もう一度外に出てみる。風はそんなに冷たくはない。曇っていて月は観えない。庭木が黙っている。獣はいない。鳥も。夜気を鼻から吸ってみる。秋の、夜のにおいだ。なんということもない。これが、生きているという事だ。これだけの事だ。取り立てて言う事もない。

 ふいに、色々な人に対し申し訳なく思う気持ちが襲ってくる。母に対しても、兄に対しても、子供に対しても、関わってきた大勢の人たちに対して自責の念を感じる。ほんとうに、そういう人の為にならどんな犠牲も払っても惜しくはないような気がしてくる。こういう気はたまに起きる。これは一種の転換作用だろうか。分析家は色々言うだろうが、とにかく自分の心はこういういたたまれない時間を味わう。夜の中ひとり、みんなことを思って、ほんとうに胸が苦しくなるのだ。それがこの雑文の締めくくりであることをどうか許してほしい。自分は、ほんとうは、誰に対しても、すまない気持ちしかもっていないような気がするのだ。

付記。今、22時26分、外で獣のうなりのような声が聴こえたので外に出てみたら、唸り声がやんで、暗がりにぼやあと曼殊沙華の白と赤が見えた。少しあやしい気持ちになり、
道路に出てみるが何もいない。もしや道路で狐か狸でもひかれて瀕死の状態にあるのかと推測したのだが、当ては外れたようだ。暗闇がすこし怖い。ちょうど昨日柳田国男の話を聴いていて、そこにお化けの話があったので、この事もまったく無縁とは思えなかった。少なくとも自分にはまだ、暗闇をおそれるしなやかな心が残っていそうなことに胸を撫でおろす。

付記の付記。自分をいなくしたい。そうすれば何もかも外側へ流れ出るだろう。こういう深刻ぶったことをいつまでやらねばならないのか、まったく、多くの事がじつに度し難い。光を。ここに、光を。



散文(批評随筆小説等) 9月30日雑記 Copyright 道草次郎 2020-09-30 23:17:38
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