Birthday Cake
ツチヤタカユキ

Birthday Cake

1.Clockwork 105s Orange
2. Birthday Cakeless
3. Smoking Gun
4.Heart of Gold
5. Awful Things
6. Never mind


1. Clockwork 105s Orange

レンが、ストップウォッチをONにする。
警備会社が来るまで、105秒以内。
犯行は、それまでに完了させる。

防犯カメラに、二人の黒い影が写った。
バールで、ドアをこじ開けると、警報が鳴る。
時刻は、深夜1時を回る。
シオンが、バールでこじ開けたドアが、
歪つに折れ曲がり、
「15、16、17、18・・・」と、
レンは、口に出してカウントを取る。
Siriのように無機質な、その声色は、上ずっている。

元々、口数が多い方じゃなかったレンは、緘黙症になってからは、全く喋らなくなった。
シオンは、レンが、喋っている所を、見る事自体、久しぶりだった。
レンは、もう14才になるのに、その体からは、いつもミルクの匂いがした。
緘黙症になる少し前から、よく部屋に引きこもるようになった。

レンが緘黙症になってから、シオンには、レンが何を考えているのかが、よく分からなくなった。
『人の心も、バールで無理矢理、こじ開けられたらいいのに』と、シオンは思った。

果てしない沈黙の中を、生きているレンにとって、今夜は久しい世界との接触だった。

ストップウォッチ内に、デジタルで表示された秒数が、積み重なっていく。

二人が装着した、覆面マスクからは、目と口だけが、見えている。
まだあどけない目をしているレンとは違い、
シオンは、威圧的な一重マブタに、キレ長の目をしている。

室内に侵入する。誰もいない事務所内の空気は淀んでいる。
頭に装着してる、LEDライトだけが、行き先を照らす。

「44、45、46、47・・・」

金庫は、福沢諭吉が眠っている寝室。
その人物が、何を成し遂げた人物なのかを、シオンはよく知らない。
金庫の鍵穴に、ハンマーを向ける。鈍い轟音。
それは小さな雷を、手の中で鳴らしたような、音だった。
ぶっ叩くと、振動が、腕に伝わって来て痺れる。
金庫が開くと、ギィーという音がする。
シオンの、流れ作業のように慣れた手つきが、これまで何度も、この犯罪を繰り返して来た事を、伺わせる。

福沢諭吉の束を取り出しながら、
こんな物があるから人は狂うと、シオンは、思った。
『まだ金が無かった頃の世界の方が、人はもっとまともだったはずだ』
そんな事を思いながら、シオンは、札束をバッグに突っ込もうとした。
その時、お札に描かれた、諭吉と目が合った。
福沢諭吉から見える景色。
人間の卑しい表情を、今まで、どれくらい見てきたんだろ?とシオンは、ふと思う。

「69、70、71、72・・・」

遠くの方から、パトカーのサイレンが聞こえた。
その音は、静まり返る世界の静けさを破る。早過ぎる警察の登場。
これには、いつも冷静なシオンも、冷や汗をかいた。


「走れ!」
札束をバッグに突っ込んだシオンは、そう言うと、路肩に駐車した車の方へと走った。
レンも、それを追いかける。
1秒間が、永遠のように感じる。
車に乗り込んだシオンの目に、レンのスニーカーの靴ひもが、ほどけているのが見えた。
まだ母親が居た頃に、買ってもらった靴を、ボロボロになっても履き続けている。
生まれた時から居なかった父親。
そして、母親までもが、一年前から帰ってこなくなった。
それ以来、シオンは、ずっと心臓の上に、スコールが降ってるような感じがした。
そのスコールは、トイレットペーパーの塊が、水に溶けて消えていくように、絶望を心の中で、ゆっくりと溶かしていった。

街は眠っている。筆圧の濃い夜の闇。
その上を、能天気そうに月が浮かんでいる。
シオンには、夜の暗闇が、汚れた雑巾を絞った時に出る、どす黒い水のように見えた。


真夜中の国道は、車がほとんど走ってない。
レンが、後部座席に乗り込むと、シオンは、乱暴にエンジンをかける。二人の体に重力がかかる。アスファルトとの摩擦で、タイヤのゴムが焦げつく音がする。
二人を乗せた車は、アクセル全開で、赤信号を無視して突っ切った。

シオンは、バックミラーで、後方を確認する。パトカーが、背後を陣取っている。その現実に、目を背けてしまいたくなる。振り返りたくもないと思うのは、シオンの過去と同じ。

大量の汗で、シャツが車のシートに張り付くのが、分かる。
メーターは、100キロを振り切れる。
サイドガラスに映る景色が、高速で後ろに吹っ飛んでいく。

その時、シオンにはパトカーのサイレンが、赤ん坊が生まれた時にあげる、産声のように聞こえた。
明日になれば、何事もなかったかのように、また静かな夜がやってくる。

後ろでレンが、怯えているのが、シオンにも伝わって来る。
「兄ちゃん、ごめんよ・・」
そう謝る、レンの声は震えていた。
とっとと帰って眠りてえ、と思いながら、
シオンは、こう返答した。

「黙ってろ」
それが、シオンとレンが交わした、最後の会話だった。

2. Birthday Cakeless


稲村家(いなむらけ)の子ども達は、 誕生日にバースデーケーキが、一度も出た事が無い家で育った。
3人は、それが普通だと思っていた。

シオンの記憶が始まったのは、3歳の時からだ。
まだ赤子だったルカが、ママに抱かれて泣いていた。
そんなルカも、今では15歳になった。

ある日、長女のルカは言った。
「ママが帰って来ないの」

少しの沈黙の後、素っ気ない態度で、シオンは答える。
「いつもの事だろ?」

シオンは、まるで他人事のように、刺がある言葉を続けた。

「アイツが何日も、帰って来なくなるなんて」

シオンを見ていると、いつもルカの心は、ざわついた。
床には、一度も開いてないシオンの教科書が、投げ出されていた。
その教科書を、一度も開く事なく、シオンは一年で高校を中退した。
それからは、バイト先を転々としながら、荒れた生活を続けた。

ママはいつも朝方帰って来て、化粧をしたままの状態で、大きく口を開けながら、ソファーで眠る。

年がら年中、顔はむくんでいて、目尻にはシワがくっきりと、浮き出してて、口元には、ほうれい線が刻まれ、頭に目を移すと、茶髪に染めた髪の毛の中に、ちらほらと、白髪が見える。
そして、お腹周りを中心に、たるんだ肉がついている。

ルカは、将来、ママみたいにならないようにしようと、心の中で、必死に抗っている。
だけど、時折、出る言動や態度が、ママに似ていて、よく自己嫌悪に陥った。
誰も遺伝子に、逆らう事は出来ない。
顔も、昔見せてもらったママの若い頃の写真に、そっくりだった。

ずっとママが座ってた、ソファーのマットレスは、完全にママのお尻の形に、凹んでいる。
まるで、今も透明人間が座ってるみたい、とルカは思った。

ママが男を家に連れ込む時は、3人の子供達を、
「遊んでおいで」と外に出す。
3人は、物心がつくまで、全ての家がそうだと思っていた。
それぞれが、時間を潰して帰宅する。
男が帰った後の家は、空気が濁ってて、獣のような臭いがする。
その臭いに腹を立てた、シオンが、ママに向かって叫ぶ。
「もうこれ以上、ガキ増やすなよ!足伸ばして寝る事すら出来ねえんだぞ!」


シオンが帰って来たら、足音で分かる。
ルカとレンが、静かな足音なのに対し、シオンは、床を蹴飛ばすような、けたたましい足音を立てる。
その乱暴な性格が、足音に現れている。


半世紀前からある、ボロい市営団地。
床には、脱ぎ散らかされた衣服。
常に敷きっぱなしの敷布団。
流し台に置いてある皿やコップからは、カビが生えている。
こんな家、恥ずかしくて、友達を連れて来れないと、ルカはずっと思っていた。

区切る壁もない、1LDKの団地の一室。
それぞれが心に、区切る壁を作った。


それが顕著に表れていたのは、昨年、ランドセルを卒業して中学に上がった、次男のレンだった。
家に居る間は、常にヘッドホンを装着して、全てをシャットアウトする。
何を話しかけても、返事をしなくなったレンはを、一度医者に見てもらうと、緘黙症だと診断された。
レンが声が出せないんだと知ると、シオンとルカは、話しかける事すら辞めてしまった。

起きてからトイレで、小便をするシオンの視界に入ったのは、生理が来るたびにママが、便器の周りに撒き散らした血の跡だった。
その時の血痕が、まだトイレの壁にこべりついてる。

起き出して来たルカは、ママが帰って来てないから、家中を探し回った後、シオンにこう言った。

「一生帰って来なかったら、どうしよう?」
夜通し泣きはらしたのか、ルカの目の周りは、パンパンに腫れている。

郵便受けには、公共料金の明細書が詰まってる。

シオンは、舌打ちをした。
何もかもが、めんどくせえ、と思った。
ルカの言う通り、これは、一生帰って来ないだろう。

「一緒に探しに行かない?」

シオンは、タバコに火をつけながら、その提案を一蹴した。

「冗談だろ?アイツは男と出ていったんだぞ!?もう母親でも何でもねえよ!!」

シオンと話していると、ルカの脳はずっと、
高圧電流に、直に触れてるみたいに、痺れそうになった。

レンは、もう起きているのに、布団から起き出そうともせずに、横になったまま、耳に挿したイヤホンで音楽を聴いている。

二人の怒鳴り声が、レンが聴くイヤホンの音楽に割り込んで、レンの心は、いよいよ忙しくなった。

「だけど家族よ?」

シオンは、その言葉を、呪いの言葉のように感じた。
別に好き好んで、この家族になったんじゃない。
ランダムで決定されただけ。
だから、知ったこっちゃねえ。
そんな言葉を吐いた後、シオンの心は、千切れそうになった。

激情に任せて言葉を吐けば、後で冷静になった時に、後悔が襲う。
頭では分かっているが、シオンは、自分を抑える事が出来なかった。

「何が家族だ?たまたまこんな最低な家に生まれただけだろ?こんな家族、誰も望んでねえのに!」

シオンが右手に持ったタバコの先から、灰が落ちる。

ルカは、その言葉を、額面通りには、受け取らなかった。
いつだって、誰よりも、家族の事を愛してるのは、シオンだった。


ママが使用していた、スマホのディスプレイ画面には、たくさんのヒビが入っていた。
あのスマホのように、ママは家族間にも、たくさんの亀裂を入れて、去っていった。

シオンは、参観日の日の教室のように、背後からずっと、誰かに見られている気がした。
その視線の正体はレンだった。
背が高いシオンとは、対照的に、レンは、背が低く青白い顔をしていて、二人に視線を向けながら、泣きそうな表情を浮かべている。
それは、無言の絶叫だった。
二人には、レンの悲鳴が聞こえたような気がした。それは、どんな言葉を並べ立てるよりも、有弁だった。

付けっぱなしになってるテレビでは、天気予報が、明日の雨を知らせてる。

シオンは、吸っていたタバコを、空き缶に押し付けた後、ママが冷蔵庫に残していった発泡酒を、取り出して、飲み干した。
ママには、頭すら撫でられた記憶が無いが、アルコールだけは、細胞を撫でてくれる。

「ここで、うだうだ言ってても、しょーがねえだろ?」

シオンは、ブルーのフード付きパーカーの帽子を被り、キレ長の目を覆い隠す。
その下にある鼻先は鋭くて、鋭利に突き出していた。

「オレがなんとかする」

歩くと、床のフローリングが軋む。
いつも誰かが落とした、カピカピになった米粒を踏んだ。
その肩には、ルカとレン、二人分の重圧がのし掛かる。

玄関のドアを開けると、いくつもの工場が見える。
このまま社会に出て、あそこで一生働いて終わっていく。
そんな未来を想像するたびに、シオンは、気が狂いそうになった。
目を閉じれば、現実を、全てシャットアウト出来る。
シオンは、目を閉じながら、外を歩く。
まだ夕方なのに、真夜中みたいに感じる。

シオンと同じく、高校を一年の途中で、中退した門脇に、街でばったり再会したのは、少し前の事だった。
久々に街で会った門脇は、以前は短髪だったのに、髪は伸び放題になっていて、口元には髭を蓄えていて、まるで原始人のように見えた。

「お前、何で学校を辞めたの?」

シオンが尋ねると、
門脇は、歯を見せて一笑した後、こう答えた。
「教室でじっと座ってるとな、急に叫び出したくなるんだ。生きながら死んでる感じがしてさ。
・・あれは、ある種の死だな」

門脇の服装は、高価そうな黒のスーツに、黒いシャツ。
その上からは、金のネックレスをしている。
『こいつのどこに、そんな金が?』と、思ったシオンは、そのまま、「ずいぶん、羽振りがいいみてえだな」と、門脇に言うと、門脇は、歯茎を剥き出しにして、笑いながら、パチンコのゴト師や、金庫強盗で儲けていると言い、「お前もやらねえか?」と、シオンを誘った。

あの時、シオンは、気乗りしなくて断ったが、今となっては事情が違う。
あの日の別れ際、門脇と交換した連絡先に、電話をかけた。
12コール目で、門脇が出る。
その声は、今、起きたばかりだというのが、伝わってくるような、寝起きで発せられる、気怠そうな声だった。

「今、起きたのか?」

門脇は、まだ夢の中から、完全に脱し切れていないのが、電話口からでも伝わってくる。
「・・お前に起こされた」

シオンは、ため息をついた後、いきなり本題を切り出した。
「門脇。今すぐ金がいる。・・何か仕事あるか?」

まだ半分寝ている門脇に、事情を分からせるのには、骨が折れた。
事の次第を、ようやく理解した門脇は、「とりあえず、うちに来てくれ」と言い、電話を切った。

シオンは、急ぎ足で歩く。もう一秒も無駄になんか、してられない。
季節は三月で、桜が咲いていて、その横を横切るシオンは、もう、それを一度も見上げる事も無い。そんな暇なんか無い。
時計の針ですら、秒針と分針が追いかけっこしてる。


門脇が暮らすマンションのドアには、鍵が掛かっていなかった。
そのドアを開くと、もう後戻り出来ない。
人生には、そんなドアが幾つも存在する。
その時、シオンが手を掛けたドアも、その一つだ。
シオンは、どんどん自分が壊れていく感じがした。それを修理しないまま走ってる。たくさんの、部品を落としながら。
また、ガキの頃のように、何も考えずにぐっすりと、眠りたいと、シオンは、思った。
そんな日は来るんだろうか?
クーラー全開で眠った次の日の朝のように、体が冷たい。

門脇の家の玄関に、足を踏み入れる。
門脇の部屋からは、アルコールと、タバコの副流煙の臭いがした。
床には、ゴミが散乱している。
玄関から、リビングのソファーに座る、門脇の横顔が見える。
その向こう側にあるベランダでは、夕焼け空を、カラスの群れが埋め尽くしていた。
門脇は、眼球だけをシオンの方に向ける。


付けっぱなしのテレビでは、スペースシャワーTVの『DEEP MUSIC ZONE』が流れている。
そこに映るラッパーのMV。
誰もいない夜の街を、一人で歩きながら、ラップしている。
それを見たシオンは、レンもあんな風に、誰も居ない場所では、たくさん喋ってんだろうか?と思った。

静かなレンと一緒に居ると、まるで世界から音が消えてしまったかのような、錯覚に陥る。



3.Smoking Gun



「どこに行ってたの?」

ルカは心配そうな声を、シオンに投げかける。

「うるせえ」

シオンは、伸びっぱなしになった髪を、ブリーチで茶髪に染めた。
着ている服は、汗だくになってて、タバコの臭いがする。
そんなシオンを見て、ルカは、ため息をつく。

「ずっと帰って来なくて、心配したんだから」

帰り道、シオンは、絵の具の色を全てぶちまけたような、吐瀉物を見た。
あんな色のゲロ、何を食ったら出んだよ?と、シオンは、思った。

「オレまで、アイツみたいに、消えると思ったか?」

「そうじゃないけど・・」

シオンは、ポケットからおもむろに、札束を取り出し、それを乱暴にテーブルの上に投げた。

「これで、上手い事やっとけ」

見た事もない札束に、ルカは、たじろいだ。

「こんな大金・・、どうしたの?」

シオンは、めんどくさそうな表情を浮かべて、
「どうだっていいだろ?」と、答えた。

そこへ、耳にイヤホンを差しっぱなしにした、レンが現れる。
二人の顔を交互に見て、観察している。
目つきが悪いシオンとは違い、まん丸い目に二重マブタ。
それは、女子なら誰もが欲しがるような瞳。

三人が一つの空間に集まると、三人ともが、何を喋っていいか、分からなくなった。

こんなにも近くに居るのに、何万キロも、遠くに居るように感じる。

「レンは、全く喋んねえんだよ」

翌日、シオンは、金庫強盗に向かう車中で、門脇にそう言うと、「全く?そうか・・」と、しばらく門脇は、黙り込んだ後、「明日からでも、透明人間がやれそうな奴だな」と言った。

門脇は、落ち着きのない子どものように、常に足を貧乏ゆすりさせていて、手にはライターを持ち、せわしなく着火しては消すを、繰り返している。
その挙動とは対照的に、平坦な声をしていて、いつも薄ら笑いを浮かべている。

門脇は、突然一人で、ケラケラと笑い出した後、こんな話を始めた。
「うちの実家、製氷機が壊れて、ずっと氷が止まんねえんだ。夏にも、雪だるまが作れちまう」

シオンは、門脇と話していると、いつも養分を吸われているような気分になる。
思った事を脳みそを通さずに、全て口にするような人間を、門脇以外に知らなかった。

時おり、門脇は、口の中をもぐもぐさせる事がある。
「ガムでも食ってんのか?」とシオンが尋ねると、「口の横の肉を食べてる」という返答が返って来た。

門脇は、一度ドラッグをやり過ぎて、自らのゲロの中で、窒息死しかけた事がある。

たまに、門脇が虚な目をしている時は、決まって脱法ハーブか何かをやった時で、一度ペットボトルを持ち上げては、横に移動させ、それをまた持ち上げては、横に移動させているのを、シオンは見た事がある。
一度眠って8時間後、目を覚ましても、門脇はまだそれを続けていた。
こんなの、生きながらにして死んでるようなもんだなと、シオンは、思った。

門脇の腕には、青色の血管が浮き出しているのが見える。
その上には、無数の針を刺した後がついてる。

シオンは門脇から「お前もやらねえか?」と誘われた事がある。
「辞めとくわ」シオンは、誘われるたびに、それを拒否し続けた。
目的は金だけ。
頑なに、ドラッグにも、ヘロインにも手を出さなかった。

シオンは、金庫強盗で稼いだ金を、一円も自分の事には使わなかった。
門脇と山分けした後、ポケットに入れた札束は、そのまま実家のテーブルに置きにいく。
ルカの後ろ姿は、どんどんママに似ていくから、シオンは、実家に帰るたびに、一瞬だけ、ママが帰って来たような錯覚に陥った。
犯行の後は、興奮の余韻で、なかなか眠れない。
そんな夜は、睡眠薬に頼り、朝の襟首を掴んで、無理矢理にでも引っ張り出して来た。
何度尋ねても、シオンが金の出所を、言おうとしないので、ルカはもう考えるのを辞めた。
ルカとレンは、その金で暮らした。

仕事は、いつも深夜に行われる。
門脇と二人で、事前に目星を付けていた会社に、車に乗って向かう。
二人は、金庫を破壊する係と、タイムを計測する係。
それを交互に分担した。
今日は、シオンが金庫を破壊する係だ。
最初は、心臓が跳ねるように、ドキドキした。
二回目、三回目と、犯行を重ねるごとに、手際がどんどんよくなっていった。
十回目を超えてからは、完全なる流れ作業と化した。
最近は、ドアノブを回して入る回数より、バールでこじ開けて入った回数の方が多い。
最初は、あんなにドキドキしたのに、今ではもう何も感じない。心が不感症になっていく感じ。

金庫をハンマーで破壊するたびに、シオンは、思った。
この金庫のように、壊れた物は、もう一生元どおりにはならない。人間も同じ。
そこらから先は、壊れたままどうやって生きていくかを、考えるしかない。
いつも犯行現場に、何かを置き去りにしてるような感覚に陥った。
奪う代わりに、何かを失ってるような感覚。
金庫を開けた時の、ギィーっていう音は、福沢諭吉の金切り声に聞こえる。

金を奪った帰り道。
車の運転をしながら、門脇が口を開く。
「俺、さっき幽霊見たかも」

シオンは、『また始まったよ』という表情を浮かべる。
隣町にある家に帰るまで、まだ時間がかかりそうだし、暇だから、シオンは門脇の与太話に、付き合ってやる事にする。

「幽霊?お前って、霊感とかあったっけ?」
そう言いながら、ペットボトルのコーラをシオンは口に運ぶ。喉仏が、上下する。

「ねえよ。初めて見たんだ。
そいつ白色の血液を吐いててさ、世界をまた白紙に戻そうとしてた」

ついていけねえ、とシオンは思った。
「・・何だそれ」
消え入りそうな声が、口から漏れた。

もうすぐ街中に差し掛かる。
シオンと門脇は、同時に覆面を剥ぎ取る。
門脇の頬には、覆面マスクの繊維の跡が付いている。

「多分・・、あの霊はリコさんだ」

門脇は、シオンと組む前に、リコさんという地元の先輩とパートナーを組んでいた。
リコさんは、ドラッグのオーバードーズで、21歳の若さで死んだ。

門脇は、嬉しそうに、
「もうすぐお盆だから、現世に帰って来てんだよ!」と、続けた。
呆れながらシオンは、こう返す。
「今、10月だぞ?」

シオンの家の近所。
いつもこの場所で、二人は別れる事が、日課となっている。
あたりは明るくなってきて、カラオケボックスから、徹夜でオールしたであろう大学生らしき集団が、出てくるのが見える。

門脇もシオンも、順当に進学していれば、あの中に居たのかもしれない。
二人は、彼らを見ていると、自分達が何だか、別の生き物にでもなったかのような気分になった。

しばらく黙り込んでいた門脇が、しみじみと口を開く。
「こんなクソな人生なんか、いつ終わってもいいけどよお・・」
少し間があって、門脇は続けた。
「・・次は何に生まれ変わるかが、問題だよな?」
門脇は、そのまま不安げな表情に変わる。
「・・また俺に、生まれちまったら、どうしよう?」

シオンは、車を降りながら、車中の門脇に向かってこう言う。
「二回目なら、もっと上手くやれんだろ?」

門脇は、笑顔を浮かべる。
それは、まるでシオンの言葉に救われたかのような、慈悲に満ちた表情だった。
そのまま、車は走り去っていく。
その日を最後に、門脇は、消息を絶った。

次の犯行当日。
シオンは、焦っていた。
何度電話するも、門脇とは連絡がつかない。
金庫強盗は、月末の給料を保管している間を狙う為、犯行は今日決行する必要があった。

仲間がバックれる事は、よくある話だった。
シオンは、門脇を諦め、仕方なく、たまたま家に居たレンを誘う事にした。
座って音楽を聴いているレンの肩を叩く。
レンは、シオンの方に視線を移した後、イヤホンを外す。
「手伝って欲しい事がある」

シオンにとって、こんなにも静かな夜は久しぶりだった。
門脇とは、現場に向かう時、『どの女性芸能人のマンコが臭そう』だとか、そういったバカ話ばかりしている。

「毎日、部屋で何やってんだ?」
シオンは、レンに言葉を投げかけた。

レンは、夏休みの流れで引きこもりになった。
学校にも行かず、一日中引きこもって、ますます何を考えているのか、分からなくなった。

レンは、無言で肩をすくめた。
レンがどんな声だったのかも、もうシオンは、思い出す事が出来ない。

シオンは、後ろ髪をかいた後、気まずい空気を破るべく、乱暴にカーステレオをかける。車内に流れる洋楽のBGM。

ブラックのワンボックスカー。
その中で、シオンは、よく寝泊まりした。
今では、実家より、この車中の方が、実家って感じがする。

「いいか?オレが金庫を開けてる間に、ストップウォッチで、声に出してタイムを測るだけでいい」
後部座席に座ってるレンに、シオンは、これからやる金庫強盗の計画を話した。
レンは、その話を聞きながら、尿意を我慢してる時のように、そわそわしてる。
現場に到着すると、「被れ」とシオンは、覆面マスクをレンに手渡した。
「・・分かった」
シオンがレンの声を聞くのは、久々の事だった。

受け取った覆面マスクを被る直前に、緊張で強張った表情と、少しだけ潤んだ瞳が見える。
それが、シオンが見た、レンの最後の顔だった。

車から降りたシオンは、慣れた手つきで、バールとハンマーを、トランクから取り出した。
自分の唇が乾燥してるのが分かる。まるで唇が、セミの抜け殻と、同じ素材になったみたい。
頭に装着したLEDの光が、行き先を照らす。

シオンの動きは、水墨画を描く時の筆のように滑らかで、レンは、ついて行くのに、必死だった。

レンは、喋らない代わりに、一つ一つの物たちに、話しかけてるように触れた。

シオンに渡されたストップウォッチに、手をかけるレン。
シオンには、その時のレンが、まるでストップウォッチの声を聞いてるみたいに見えた。

レンがストップウォッチをONにする。

4.Heart of Gold

ルカが「妊娠した」と告げてから、後藤の態度は急変した。


産婦人科帰りのルカが、家に帰ると、リビングでは、仕事終わりの後藤が、ぐったりとしている。

「4ヶ月目を過ぎてるから、一度産んでから、殺さなきゃならないんだって・・」

後藤は、顔を曇らせたまま、黙ってルカの話を聞いている。

ルカは、産婦人科で言われた事を、ひとしきり話し終えると、重くなった空気を察して、話題を変えた。

「あのね、今日、病院に行く途中にね、野良猫がいたの。その野良猫がね、ずっと・・」

後藤は、「あ?」と、床を見つめたまま、声を発した。

「それで、その野良猫がね、ずっと道に捨ててある、ゴミ袋を漁ってて・・」と、ルカが続けた話を、「なあ、黙ってくれねえか?」と後藤は、遮った。


「俺は新しい仕事を探してんだ。
・・ただでさえ、寝る暇もねえのに。
中絶の費用を稼ぐために、シフトも増やしてんだ。そんなクソみてえな野良猫の話なんか、どうでもいいだろ?」

ルカは、言葉を失う。二人の間に流れる沈黙。
後藤が、イライラした時にだけ吸うタバコ。
灰皿に落ちた、灰が砕け散る。
あんな風に、レンは、車がブロック併に衝突した時、アスファルトに投げ出され、体内の骨は粉々になって死んだ。
ルカは、その現場写真を、警察から見せられた時、せめて苦しまずに、逝った事を願った。

「・・すまん。部屋に行くわ」

シオンが起こした事故があって以来、ルカだけが残された、実家の団地。
808号室には、今では別の家族が住んでる。
家族の思い出が染み付いたあの家に、ルカは、もう帰りたくないと思った。

あれからシオンに、一度も会っていない。
刑務所の面会にも、一度も行く気がしなかった。
二度と会いたくないと、ルカは思った。
兄弟を二人同時に、失ったような感覚。
出来るだけ、シオンの事は、考えないように努めた。
しかし、排除しようとすればする程、無意識のうちに、シオンの事を考えている自分が居る事に気付いた。
記憶は、入れるのは楽だけど、消すのが困難な点で、タトゥーと同じだなと、ルカは、思った。

あまりにも辛い出来事は、自動消去される機能が付いてるのか、ルカはあの頃の事を思い出そうとしても、何一つ思い出せなかった。
警察から事情聴取された記憶だけは、今でも鮮明に残っている。

自分は、もしかしたら、レンを助けられたかも知れないという罪悪感だけが、ルカの中に残った。
あの日、自分が家に居て、レンを行かせなければ、レンは死なずに済んだ。
ああなってしまう前に、シオンを止めるタイミングは、今まで何度もあった。
それなのに、何もせずに、見過ごし続けていた。

自暴自棄になり、コンビニで買った酒を胃の中に流し込んだ。
酔いが回ると、ルカは、道端で泣きながら叫んで、そのまま嘔吐した。
何も食べていないから、逆流したのは、胃液のみだった。

そんなルカに声をかけて来たのが、当時18歳の後藤だった。
出会ったその日から、ルカは、後藤の家に転がり込んだ。
二日酔いの朝は、後藤の甲高い金属音のような声が頭の中に響いた。

「一人っ子だったの」
家族の話を聞かれるたびに、ルカは、後藤にそう偽った。
誰にも言えない過去は、心の金庫に閉じ込めるみたいにして、隠し通した。

毎日、朝食を食べ終えた後藤は、そそくさと、バイト先の建築現場へ向かう。
一人で部屋に残されたルカは、静まり返った、世界の音を聞いた。

後藤は、まだ18歳なのに、30代のような風格を感じる。
顔は、日本人離れした鼻筋の通ったピーナッツみたいな顔立ちをしていて、学生の頃、暴走族をしていた頃の雰囲気が、今もどこと無く残っている。

出会ったばかりの頃、ボクサーを目指しているという後藤に、「何でボクサーになろうと思ったの?」と、ルカが尋ねると、一本のDVDを見せられた。

「この人みたいに、なりたいって思ったんだ」

後藤が指差した、安城健吾という名前のボクサーは、その当時の世界チャンピオンに、ボコボコにされては、何度もマットに沈められていた。

まるで、モグラ叩きのモグラ。
殴られるために、立ち上がっているようにしか見えなかった。
その痛ましい惨劇に、「もう、やめときゃいいのに」と、ルカは思った。
それでも、リング上のモグラは穴から顔を出し続けて、試合終了のゴングが鳴る頃、安城健吾の顔面は、シルバーのスプーンの裏側に映った時の顔のように、大きく腫れまくっていた。

後藤の金髪の髪型は、その安城健吾を真似しているんだと、その時、ルカは知った。

毎日ボクシングジムに寄ってから帰って来る、後藤の手からはいつも、ボクシンググローブの臭いがした。
帰宅すると、すぐにその手を、ルカが着ていたニットのワンピースの下から入れて、胸を揉んだ。
その後は、いつものように、前戯もなく、いきなり挿入して来て、ルカは、まるで物のように扱われているみたいで、それを苦痛に感じていた。
後藤の体からは、汗と小便が入り混じった、硫黄のような臭いがする。
終わると、後藤は、すぐにズボンを履いた。
再び着たシャツからは、汗の臭いがした。

ルカがゆっくりと、立ち上がると、ゴムも付けずに中に出された、生温かい精液が、太ももをつたって、床に垂れた。
さっきまで、寝転んでいたベッドのシーツが湿っている。
後藤は、すぐにイビキをかいて眠ってる。
何だか、心が鉛になっていく感じがした。
ルカは、半分口を開けながら寝てる後藤の横に、寄り添って眠る。
彼の肉体は、インナーマッスルが硬くて、まるでイナズマを抱いて眠ってるみたいに感じる。

ルカは、すぐに後藤の子を妊娠した。
初めてのつわりは、台所に出たゴキブリを、スリッパで叩き潰した時に、飛び散った液体を、胃袋の中に詰め込まれたみたいに、苦しくて気分が悪かった。
ルカは妊娠した事を認めたくなくて、ひたすら放置し続けた。
次第にお腹が大きくなり、産婦人科で診察したら、妊娠4ヶ月だと告げられた。

一瞬、レンが自分のお腹の中に戻って来たんだと、ルカは思ったけど、後藤からは、堕ろす事を強要された。
口には出さないが、ルカも内心、その事を望んでいた。
まだ、17歳だったから、母親になる決心なんかつかなかった。


中絶費用は、この家の家計を圧迫した。
寝る間も無く働く後藤を見て、ルカは、心苦しかった。
「私も働こうか?」
ルカのその提案を、後藤は、すぐに却下した。
「お前は、働かなくていい。ずっと家に居ろ」

「どうして?」

「そういうもんだろ?」
型にはまった考え方。
それをコピーアンドペーストしたような、日常は続いた。

ルカは切り詰めた食費の中で、腕によりをかけて料理を作った。
後藤は、いつもルカが作った料理の上から、塩や醤油をぶっかけて食べた。
ルカの耳の奥の方では、さざ波の音がした。

「薄味すぎたかな?」

「・・ああ」

妊娠が発覚して以来、ルカと後藤は、淡白な会話しか交わさなくなった。
ルカは、何か言いかけては、口の中で溶けるフリスクのように、言葉が舌の上で溶けて消えた。
レンもそうだったのかな?とルカは、思った。
レンと、もっと話しておけば良かった。
あんなに近くに居たのに、レンの事を何も、分かってあげられなかった。
泣き腫らした次の日は、目が真っ赤で、世界は、にじんでる。
睡眠不足の後藤は、目の下にクマを作って、深夜バイトに出かけて行く。

ルカが、酔ったママが口を滑らせて言った、父親の住所に、自転車に乗って会いにいったのは、小学生の時だ。
インターホンを押すと、中から出てきた中年の男は、目を丸くしながら言った。

「・・ルカなのか?」
その日から、こっそりと会っていた父親に、レンが死んだ事を告げても、悲しむどころか、平然とした態度だったから、理由を問いただすと、シオンもレンも、全員、それぞれ父親が違う事を、初めて教えられた。
半分しか血が繋がってなかっただなんて、道理でそんなに似ていないはずだ、とルカは、自分の心の中で納得した。
だけど、ママは、何でその事を隠してたんだろ?
そんな大事な事を、隠し通されていた事に、腹が立っだけど、今はもう、怒る人も居ない。

「ママとは何で離婚したの?」

ルカが父親に初めて会った日に、投げかけた質問に、「あ?結婚なんかしてねえぞ?」という予想外の返答が返って来て、その後、父親は、遠い目をしながら言った。

「お前の母さんとは、不倫だったんだ・・」

ルカは父親の事を知れば知るほど、ガッカリしていった。
こんな事なら、知らないままの方が良かったと、ルカは、思った。

「なあ、金貸してくれねえか?」
ある日、父親からそう言われたルカが、「いくら?」と聞き返すと、「10万くらい」という返答が返って来た。
子どもの頃から、こっそり貯金していたお金の中から、10万円を貸したら、そのまま父親は、行方をくらませた。
ルカは、お金を失った事よりも、父親を失った事の方が、悲しかった。
「皆、私の周りから消えちゃうみたい」とルカは、思った。

息が上手く吸えない日。
待合室は、妊婦でいっぱいだった。
無愛想な医者は、今まで、幾度となく、こんなシーンに出くわして来たであろう、冷たい機械のような作業で、ルカに堕胎手術を施した。

数日後、葬儀が行われ、産まれ損なった命は、半分の大きさに切断された、棺桶に入れられた。
ルカは、身体は軽くなったけど、心は重たくて、潰れてしまいそうになった。
ついこの間まで、胎児が居た場所に、空白が出来て、そこに入り込んだ絶望は、触れてみると人肌だった。

葬儀中、後藤はルカにかける言葉が見つからなくて、無言で横に寄り添っていた。
近くで見ると、後藤の口周りには、うっすらと青い髭が生えていて、体からは、焼きそばソースが焦げついたような臭いがした。

「私、シオンと、同じ事したのかな?」
家に向かう道中、ついルカは口を滑らせてしまった。

「は?シオンって、誰だよ?」
後藤は、不審そうな顔でルカを見た。
もう隠し事なんかしたくないと、ルカは思った。
ありのままの自分を、愛して欲しかった。
私には、シオンという兄と、レンという弟が居た。

「シオンは私の兄。弟を殺したの」

風呂場で、シャワーを出しながら、あげた悲鳴。
全部シャワーの音に混ぜて、排水溝に流した。
世界中の音をミュートにして、ルカはその中で絶叫し続けた。
泣き過ぎて、頭痛がして、こめかみがひりついて、心臓が泥の塊に変わって、体内を落下して腹部にぶつかって、壊れた。
涙は頰をつたい、口の中に入って来た。
薄い塩味が、舌先に当たる。
ずっと、閉口していれば、土砂降りの雨に打たれても、口の中だけは、雨に濡れない。
だからこの薄い塩味の水滴は、口の中に侵入して来た初めての雨。
涙の色は、半透明で、もし幽霊が居たとしたら、きっとこんな色なんだろうなと、ルカは、思った。

その日の夜は、ひんやりとしていた。
冷蔵庫を開いた時に、頰を撫でる冷風のようだ。
そんな死にそうな夜でさえ、次の日の朝が来れば、インクが出なくなったボールペンで、文字を書き続けたみたいに、次の日には、悲しみは薄れてる。
真っ白なページのような、昨日の夜中を、置き去りにして。

翌日、ジムから帰って来た後藤は、スパーリングで折れた歯を、持って帰って来た。
後藤は、どこか誇らしげだったけど、ルカにはそれを、美徳とする感覚が理解出来なかった。
自分を壊そうとするなんて、バカみたい。
ルカはまるで、シオンを見てるみたいで、不快な気分になった。
その後、後藤は、いつものように、ルカの体を求めて来た。
昨日、葬儀が終わったばかりなのに、吹っ切れるのが早すぎると、ルカは、思ったけど、黙って、それに応じるしかなかった。
唯一、いつもと違うのは、射精しようとする後藤に、ルカが、「外に出して」と告げた事だった。
次の瞬間、ルカはお腹の上に、生温かい蜂蜜を垂らしたような感覚が広がった。
そして、ルカと後藤は別れた。

レンが今も生きていたら、18歳になる年。
二十歳を迎えたルカは、どんどん美しくなっていった。
妊娠中、増えた体重は元に戻り、たるんだ肉がついた皮膚が張りを取り戻す。
腰まで伸びた髪を、ショートカットにして、妊娠中に抜けたまつ毛を補填するためのマツエクをした後、髪の毛の色を、金髪に染めた。

レンがどんな声をしていたのかも、ルカは、もう思い出せなくなっていた。
代わりに、街で自販機を見るたびに思い出す事があった。
まだ幼少期のレンの背が低くて、上の段のコーラまで手が届かないから、ルカが抱っこしてボタンを押させてあげた事だ。
幼い頃から、体が弱かったレンを、ルカは、よく看病してあげた。
ルカの記憶の中に留まっているレンは、いつまでも、小学生の頃のままで、今にも、ランドセルを背負ったレンが、この家に帰って来そうな気がする。
自分の知らない所で、レンがまだ生きている気がする。

ルカは、3年ぶりに各駅停車の電車で、昔住んでいた街に降りてみる事にした。

まだ、あの団地の808号室には、あの頃のままの自分達が、暮らしてるような気がする。

中学校の校舎の中にも、まだ制服を着たままの自分が、居るような気がした。

そんな妄想にふけながら、あの団地の前を通ると、別の家族の洗濯物が、ベランダに干してあった。
あの頃は、団地の周りだけが、世界の全てだった。今では、世界を見ているアングルが違う。

大人になるにつれて、心がミキサーのように変わっていって、ルカの中に沸き起こる、全部の感情をかき混ぜている。
だから、今のルカの胸のうちは、悲しいし、嬉しいし、暖かいし、苦しい。
まるで、この街から、抱擁されてるみたい。

ルカは、新しい恋人が待つ家に帰り、洗顔して、ノーメイクになる。
もう帰る場所なんかどこにも無いから、新しい居場所は、これから作る。
目を閉じると、すぐそこにレンが居る。
こうすれば、いつだって会える。
ルカは、目を閉じる。
こうするだけで、この世に生まれて来れなかった赤ちゃんにだって会える。

「だから、私は、一人じゃない」とルカは、思った。


5. Awful Things

「どうして、自分を破壊しようとするの?放っておいても、腐っていくのに」
たまに、門脇の家に入り浸ってる、名前を覚えるのもバカらしい女が、シオンにそう言う。
その女は、コンビニの自動ドアのように、誰にでも股を開く。いつも、その女の陰部からは、爬虫類の死骸のような臭いがした。

女が帰った後、シオンが門脇に、
「あんな女のマンコに挿れるなんて、下水道に突っ込んでるようなもんだろ?」と、言うや否や、門脇は、2時間も爆笑し続けた。
口を開くたびに立ち昇る、マリファナの黄色い煙のせいで、門脇の前歯は、いつもよりも黄色く見える。
喘息持ちの門脇は、マリファナをやり過ぎると咳が止まらなくなるから、「後は、お前が全部吸っていいぞ」と、残ったマリファナを、シオンに渡した。

薄暗い刑務所の中の暮らしは、シオンの視力を奪った。
シオンがマリファナを吸うと、掛けているメガネのレンズまでが、黄色い煙に包まれる。シオンのメガネだって、シオンと一緒にマリファナをやっているように見える。
門脇が、注射器と間違えて、すぐそばにあったアイスピックを刺して、腕から流血しながら爆笑する姿を見て、シオンも朝まで、腹を抱えて笑った。

玄関には、折り畳み傘じゃないのに、無理矢理折り畳もうとして、ぐにゃっと折れ曲がった傘が、玄関に捨てられている。
コカインと、脱法ハーブと、MDMAと、マリファナ。
これらが、非合法なのは、人間を壊す物だからだそうだ。
だけど、この世には、いっそのこと、壊れてしまいたい人間だって存在してる。

この部屋にある物の中で、唯一、合法なのは、酒だけ。
コカインをスプーンで鼻から吸引した後、そこら辺に転がってる酒を流し込んだ。シオンは一瞬で、泥酔したような感覚になる。
でも、それが、どのドラッグによって引き起こされているのかが、分からないくらい、たくさんのドラッグを同時にやった。

シオンが刑務所に居た4年間の間に、面会に来たのは、門脇だけだった。
「ルカはどうしてる?」
「しばらくして、引っ越したみたいだな。もうお前の家には、誰も住んでねえよ」
「そうか・・」

門脇が音信不通になっていたのは、マリファナの不法所持で、留置所に入れられていたからだと、面会室で、聞いたシオンは、今もあの日のパトカーに追われ続けている感覚が残っていた。
シオンの中では、あの日の逃走劇が、今だに続いてる。ずっと何かに、追われてる。

そして魂はまだ、あの日の取調室の中に居る。
警察に写真で見せられた、レンの死体の写真が、頭から離れない。
ルカもきっと、あの写真を見せられたはず。
「死ぬべきだったのは、オレの方だった」とシオンは、思った。
それからシオンは、刑務所の中で生きる事を放棄した。
何度か試みた自殺未遂も、意識を取り戻せば、医務室のベッドの上。
壊しても、壊しても、修理される体。
システムエラーを起こしているのは、心の方だから、体を治しても、結局は無意味で、今では、コカインと脱法ハーブが、壊れた心のセラピストのようになり、脳みそを炙られているような、カウンセリングの診察結果、シオンが口に出した言葉は、「・・オレ、今、空気の姿が見えてる気がする」。
頭が体ごと、ぶら下げたまま宙に浮かんでいく。
ベランダから見える、コンクリートを空に敷いたような曇天。
シオンは、あそこに衝突して、粉々になって、死んでいきたかった。
門脇はその隣で、自分の影に向かって、「お前もやれよ」って、注射器を、影が伸びた床に向かって打っていた。
命をこんな風に、粗末にしながら日々を過ごしてる。まるで、人間の粗悪品。

目覚めたシオンが見る、自分が鏡に映った姿。
知らぬ間に口髭が、唇の上に暖簾のように伸びていて、それは、もう数日が経過している事を表していた。
カップラーメンを食おうと思って、鍋を火にかけたまま、その事をすっかり忘れて、水はお湯に代わり、そのまま全部、蒸発して消えた。

刑務所の中の娯楽は、読書くらいしかなかった。
「ムショでどんな本、読んだ?」
刑務所から出たばかりのシオンに、門脇が尋ねた。

「うたかたの日々」

「うたかた?何だそれ?どんな話?」

「肺に水蓮の花が咲いて、死ぬ女の話だ」


「へー」
門脇は、しばらく考え込んだ後、笑みを浮かべながら、こう言った。

「俺だったら、お腹の中で、マリファナを栽培するけどな。
絶対に、サツにバレねえぞ?」

パンツ一枚の門脇は、腹の肉が、膨らんだモチのように、前方に突き出している。
ドラッグをやった後は、触覚がちぎれた虫の飛行のような、歩き方しか出来ない。
足元から伸びた影が、巨大な落とし穴に見える。
電車がすぐ上を通ったように、体が振動してる。
そのまま、それは、痙攣となって、内臓を腐葉土の中に埋もれてるみたいな感覚で出迎える。
ずっとドラム式洗濯機の中に居て、回転してるみたいに世界は回ってた。
嘔吐を繰り返して、体内が空っぽになっても、まだ胃袋の中には、気怠さが残っている。
「お前、見てるとよお、死ぬ前のリコさんを思い出すよ」
門脇が、カップ麺をすすりながら、唐突に語り出す。
「死ぬ前の、リコさんを見てるみたいなんだ」
黙って聞いてるシオンに、門脇が、続ける。
「お前、死ぬのか?」
色んなドラッグをやり過ぎて、シオンは、左耳が完全に聞こえなくなった。


シオンは門脇から、運び屋の仕事を紹介された。
運んでいるバッグの中身が、何なのかすら、教えてもらえない。知らない方がいい。
決まっていつも配達先は、普通のマンションだった。
寝静まった街を歩く時は、地球丸ごとを、誰かのポケットの中に入れたみたいな感じがする。
インターホンを押したら、出て来たのは、5分後には、忘れてしまいそうな、どこにでもいる、普通の見た目の男だった。
そいつにバッグを渡せば、万札が入った封筒が手に入る。
その報酬で、シオンは、またドラッグを買う。
そんな暮らしの中から、余った金をかき集めて、探偵を雇う。
「妹を探して欲しい」
数日後、連絡があり、とある住所を渡された。
シオンは渡された住所に向かう。それは東京の郊外。いつもの運び屋の仕事の、配達先のマンションみたいな普通のマンション。インターホンを押す。
ドアを開いて出て来たのは、シオンが四年ぶりに見たルカの姿。
居なくなったママの若い頃に、そっくりだ。
その目は戸惑いを隠せないでいる。

黒ずくめのパーカーのフードの帽子を被っている。そこから除いてる顔のパーツで、ルカにはその人が、シオンだと分かる。

「・・何しに来たの?」

ルカは、何とか言葉を絞り出して言った。

「出所したんだ」

「どういうつもり?」

「何が?」

「えっ?本当に出所したの?レンを金庫強盗に誘って、パトカーに追われて、逃げる途中で、事故ってレンを殺したのに、たった四年で出て来れんの?」

「・・ワザとやったんじゃねえよ」

シオンは、知らぬ間に、口内炎がいくつも出来ていて、喋るたびに、割れたガラスの破片を、口の中で転がしているみたいに、口の中がしみた。
その口内炎は、心臓の周りも埋め尽くしている。そして、息を吐くたびに、心をしみさせた。

「もう消えて!顔も見たくない!」

「おい、全部、オレのせいだってのか?
アイツはどうなる?突然消えて、オレたちを捨てた?アイツさえまともだったら、オレはあんな事・・」

「そんな話、聞きたくない!帰って!」

「おい、忘れちまったのか?金が必要だっただろ?あの時は、ああするしかなかった!仕方ねえんだよ!オレが何とかするしか無かった。お前らのためだ!」

「何、自分を正当化してんの?全部、家族のためにやったって?違うわよ!あんたは、ただ全部を壊しただけ。もうこれ以上、人の人生を壊さないで。レンを殺したくせに」

「そんな事は、言われなくても、分かってんだよ!どんだけ自分を責めたと思う?こっちは、罪を償って出て来てんだ!」


「償うって何?ムショに入る事?レンを返してよ!レンは、もう居ないのよ!あんたのせいで!
全部あんたが引き起こした!
全部むちゃくちゃにしたくせに!消えて!
あんたが、死ねば良かったのよ!」

そう言って、ルカは、ドアを閉めた。
ずっと、周波数が合わない人間同士の会話って感じがした。

シオンが帰った後、ルカは、
「もうあの頃のシオンは、死んだ」と、思い込もうとした。
そう思おうとすれば、する程、子どもの頃のシオンの姿ばかり、頭に浮かぶ。
思い出の中のシオンは、あの時のまま止まってる。
レンは、まだ赤ちゃんって感覚が残ってる。
レンが生きていた時の余韻も、ずっと残ってる。まだ青いまま収穫されたイチゴを、かじった時みたいに、甘酸っぱい記憶になって残り続けてる。
体内にある透明なガラスが割れて、粉々になった。
その破片が、心臓にかすり傷を付けていく。


シオンは、運び屋の仕事の途中に、駅の公衆便所の障害者用トイレに入る。
そこは、世界中の誰の視界にも、入らない場所。
汚れた床の上に座り込む。シオンがそのまま、床に脱ぎ散らかした靴。ブラックコーヒーの空き缶が転がった床には、トイレットペーパーの切れ端が、こべり付いている。
ここに居れば、誰にも邪魔されない。誰も自分を傷つけない。巨大な母の胎内に居るような感覚。
口の中が、乾いてる。砂漠の中に舌があるみたいに感じる。

『鏡とジャンケンしてたらさ、勝てたわ』
という、門脇から来たLINEから、察するに、あいつは真っ昼間から、コカインをやっている。

シオンは、いつも運んでいるバッグの中を、初めて開けた。
中からは、セーターに、お菓子に文庫本。至って普通の荷物が出て来た。
だが、その奥を探ると、透明な袋に入れられた、白い粉が出てくる。シオンの心拍数は上がる。
高校を中退したから、貰えなかった卒業証書。
ともすれば、自殺は人間の中退。
その白い粉を、スプーンに乗せて、火で炙りながら、水で溶かした。
魚から血抜きするみたいに、注射器から溶かしたクリスタルを、針で静脈に流す。
低空飛行するジェット機が、後頭部に衝突したような衝撃と共に、湖が体の中に入ってくるみたいな感覚が広がる。シオンは、ヘロインをひたすら、炙って打ち続ける。
自分の輪郭が、溶けて、世界と繋がって揺れている。
胎内で進めた進化を、逆行するみたい。
胎児に戻って、精液になり、便所の床に散って、染み込んでいく。
シオンの聞こえなくなった左耳に、団地の廊下を歩く、ルカとレンの足音が聞こえる。
それは、学校に行く前の毎朝のそそくさ。
目が覚めた時に、また、あの日の朝になっていて欲しい。
シオンは、そう願いながら、バッグの中にあったヘロインが、3分の2が無くなった所で、痙攣したまま意識を失った。
50分後、警備員によって、左腕に注射器が刺さったままの姿でシオンは、発見された。

ルカのケータイには、知らない番号から、留守電が入っていた。
再生してみると、「ルカ、オレだ」と、シオンの声にルカは、絶句する。

「これが最後の電話だから、切らずに聞いてくれ」
シオンの消え入りそうな浅い呼吸音が、たびたび聞こえる。

「・・レンの事はすまなかった。
レンだけじゃなく、お前の人生も滅茶苦茶にしちまった。全部、オレのせいなんだ。
・・ルカ、ごめんな。
でも、もう安心してくれ。
もうお前の目の前には、二度と現れないから」
そこで、メッセージは、終わる。
ルカは、その留守電を聞いて、「シオンは、このまま死ぬ」と直感的に感じた。
ケータイを掛け直しても、折り返しは、来ない。
昔のシオンの事が、頭に浮かぶ。
内気で、「画家になりたい」と言っては、絵ばかり描いていたシオンは、ルカやレンの似顔絵も、よく描いてくれた。
だから、ルカは、シオンが大人になったら、自動的に画家になるもんだって、思っていた。

今の留守電で、ルカは、その頃のシオンの存在を感じた。
いつものシオンの喋り方とは、違う。
あの頃のシオンを彷彿とさせる、少年のような話し方。
あの頃のシオンは、まだ今のシオンの中に生きている。
「その子まで、殺してしまわないで欲しい」と思って、ルカは、涙を浮かべる。


6. Never mind

シオンは、目覚めると、真っ白な病院に居た。
病院のベッドのシーツが、暖かくシオンの体を包む。
「あれだけの量を、体内に入れて、まだ生きてる事なんて奇跡ですよ」と、そう医者はルカに告げた。

シオンは意識が戻ってから、リハビリの一環で、スケッチブックを渡された。
震える手で持った鉛筆で、シオンが最初に描いたのは、子どもの頃のレンの絵だった。

「順調に回復されていて、最近は病室で、節目がちな男の子の絵ばかり描いてますよ」
医者からの電話を切った後、「それは、レンの絵だ」とルカは、直感的に感じ、いつかシオンの絵を見てみたいと、思った。

シオンは、毎日、レンの絵を描き続けた。
そうする事で、レンを絵の中で、永遠に生きさせようとした。
描く事は、シオンにとって、世界と繋がるためのカートリッジであり、絵の中に、狂気を封じ込める作業でもあった。
シオンの絵を見て、看護婦は、息を詰まらせた。
「これが、本当にこの人が描いた絵なの?」
看護婦は、目の前の状況が信じられなかった。
シオンの絵は、すぐに病院内の噂になった。
その絵は、絵の中で、人に命を授けるような絵で、見た者の心を必ず掴んで、シェイクさせた。

シオンは、毎日毎日、大量の絵を描くため、ついには、その置き場所に困り、描いた絵をゴミ箱に捨てるようになった。
ある日、シオンが、病室のゴミ箱に突っ込んだ一枚のキャンパスを、看護婦がこっそり、ルカの元に送った。

それは血を流しながら、描いたようなレンの絵だった。
剃刀で世界を削ったかのような、鋭角な線に、塗られた絵の具は、シオンが垂らした血液のようだった。
人間の中にある37兆個の細胞を、全て集めてそこに再現したような、繊細な色彩。
「レンが生きてる」
ルカは、その絵を見て、膝から崩れ落ちて、割れた卵から、垂れてくる卵黄のような、大粒の涙を流した。
レンが、すぐそこに居て、絵の中で呼吸している。
ルカの心の中の、欠けていたパズルのピースの隙間を埋める。
涙腺の中で揺れる視界は、絵の中のレンを水族館の中に居る魚のように、揺らし続けた。
ルカは、その絵を生涯、捨てる事は無かった。
それは、シオンが、誰よりもレンを理解し、愛していた証拠だった。
その絵を見ていると、シオンの心の中を見ているような気になった。

シオンが入院する病院は、地下鉄を二本乗り換えないと、辿り着けない。
病院に到着すると、ルカは、開けっぱなしの病室の入り口から、シオンの様子を覗いた。
シオンの病室は、描きかけの絵が散乱していて、まるでアトリエのような状態になっていて、どの絵にも必ず、レンの姿が描かれていた。

シオンは、片手に持ったパンをかじりながら、描き続けていた。
髪は短く刈り込んでいて、その時ルカは、黒髪のシオンを10年ぶりに見た。
今描いているキャンパスには、打ち上げ花火を絵にぶつけて、爆発させたような、狂気が宿っていた。
シオンには、ずっと狂気を閉じ込める入れ物が必要だったのかも知れないと、ルカは、その時思うと同時に、シオンはようやく、本当の居場所を見つけられたんだと思った。

「具合はどう?」
病室の中に投げかけたルカの言葉に、シオンは振り返り、こう答える。
「ああ、・・かなりマシだ」
シオンの話し方は、以前とは違って、穏やかな口調になっている。
ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れて、本当のシオンが現れたみたいで、ルカは、やっと本当の意味でシオンと、再会出来た気がした。

ルカは、病室の中を見回して言った。
「こんなにたくさん、描いたのね」

「ああ・・、他にやる事もねえからな」

「・・ねえ。・・ここもいいけど、ちょっと庭に出ない?」

シオンの右足は、中の綿を全てかき出されたぬいぐるみのように、ペシャンコになっている。
それは、シオンに残った後遺症の一つだった。
杖をつきながら、体を斜めに傾けて廊下を歩く。
ルカもそれに続いた。
「歩くの遅えだろ?」
「ううん、そんな事・・」
「いいんだ、慰めの言葉なんか・・」
二人は、病院の廊下を、ゆっくりと進んでいく。
ルカは、シオンの体を支えながら言った。
「いつも、私とレンを置き去りにして、一人で先々、歩いてたでしょ?」
「そうだったけな?」
「あの頃より今の方が、私は好きよ」

病院の庭にあるベンチに、シオンが座ると、ルカはその隣に腰掛ける。
二人の上で、木についた若葉が、風に吹かれて揺れている。

「いつもここに座ってるオッサンがさ、ヤバイ奴なんだ」
シオンがゆっくりと、話を続ける。
「ここでオナニーしてやがんだよ。・・看護婦達を見ながら」
ルカは「何それ、ヤバすぎない?」と言って笑った。

二人は、しばらく流れていく雲を眺めて過ごした。
空の青さは、青信号の青で、そのまま進めって言ってくれているように、シオンは感じる。

「あっ、そうだ!」
何かを思い出したようにルカは、バッグからファンシーな柄が描かれた、四角い箱を取り出した。

「はい、これ」と、ルカはそれをシオンに差し出す。
「何だ?」
「今日、誕生日でしょ?」
その日は、シオンの24歳の誕生日だった。
シオンは、今日が誕生日だって事を、すっかり忘れていた。
その時初めて、今日が自分の誕生日だった事を思い出した。
「開けてみて」
シオンが開けた、箱の中から出て来たのは、白いホールケーキで、その上には、クリームで飾り付けがされていて、チョコレートのプレートには、『シオン誕生日おめでとう』と書いてある。

シオンは、それを見た瞬間、小学生だった頃の自分に戻る。
バースデーケーキが、欲しくて欲しくて、たまらなかった。
だけど、それを欲しいと思う事さえ、悪い事だと思っていた。

ルカは、少年に戻ったような、あどけないシオンの表情を見て、優しく微笑んだ。

それは、シオンが生まれて初めて貰った、バースデーケーキだった。

(完)


散文(批評随筆小説等) Birthday Cake Copyright ツチヤタカユキ 2020-03-15 06:29:21
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