御免よ、僕には気づいてあげることが出来なかった
ホロウ・シカエルボク



いつからかどこかからずっと聞こえている小さな悲鳴は僕のものなのかもしれないしあるいはまるで関係のない誰かのものかもしれない、ポータブル・ラジオがたまたまどこかの国の電波を拾ってしまうみたいに僕の受信機に引っかかった誰かの―でも僕にはそれがなんであるかを突き詰めるつもりなんて毛頭ない、そんなものにとらわれてみたところでなにかが出来るわけでもない、いわゆるスピリチュアルな能力なんて持ち合わせがない…こんなものはただ、身体に突然現れた奇妙なホクロみたいな感じで、認識するだけしてあとは気に留めないでおくのが一番なのだ―というわけでしばらくの間、僕はそれをまったく気にすることなく生きた、もちろん最初のうちは上手くいかないときもあった、仕事でイライラしてるときなんかやたらと気になってしまってさらにイライラしてしまったりした、でもだからといってなにが出来るだろう?さっきも言ったようにこれについて出来ることはなにもないのだ、地球温暖化とか(嘘だって話もあるけど)そういったものと同じで、八方手を尽くしたところで得るものなどないってことは目に見えてる…たとえばメンタル系のクリニックに行ってなんらかの判断を仰げば、処方される薬によって聞こえなくすることは出来るかもしれない、聞こえているものを聞こえなくする、それは一見解決しているように見える、でもそれはまるで解決したことにはならないのだ、きっと薬のせいで一日中なにもやる気がしないとかそういうこともあるだろうし―たとえば誰かがもうこんな汚い世界なんか見たくないんですとあなたに言ったとしたら、あなたはそいつの両目を潰すだろうか?そして、これで見なくて済みますよと優しく言うだろうか?僕が言いたいのはそういうことだ―そんなわけで僕はそれをある日生じたちょっとした肉体的なノイズという程度の認識で聞き流しながら結構な日数を過ごした、誰にも相談しなかったし、また悩む必要もなかった、だってそれは凄く小さな悲鳴だったのだから…それが僕にとって深刻な問題となったのは、始まった時と同じようにある日突然それが聞こえなくなってからだった…ああ、よかった、と、最初僕は確かにそう思った、ほとんど気にならなくなってはいたといえ、それがずっと聞こえているというのはなかなかのストレスだった、世界はこんなに静かだったのか、と僕は周辺の音に耳を澄ませた、ちょっと感動したりした、久しぶりに解放された僕は、とてもリラックスした気持ちでその日の午前中を過ごした―が、時刻が午後に切り替わって昼飯の安いパスタが胃袋の底にどっしりと腰を据えるころ、急にとてつもない不安感に包まれた、だってそうだろ、いままでずっと聞こえていたあの声は、他のどんなものでもない悲鳴だったんだぜ、誰かが悪口を言ってくるとか、馴れ馴れしくため口をきいてくるとか、そういうことではなく―あれは間違いなく悲鳴だったんだ―クソッ、と僕は悪態をついて、飲んだばかりのコーヒーの缶を地面に叩きつけた、いまとなって考えれば、いろいろな可能性がそこには感じられた、たとえばこの近くに死に瀕している誰かが居て、気づいてもらいたくて必死に上げている声が、観念的に僕に届いた―そんなオカルティックな想像に浸ってしまうくらいに、瞬間的に僕は追い詰められた、なんとしても原因を究明しなければいけない気がした、図書館へ行って、新聞のバックナンバーの訃報欄を片っ端から読んでみたり、街中を歩いて道端に置かれている花束を探したりした、病院に勤めている知り合いに電話をかけて、近頃小さな悲鳴を上げながら死んだ患者が居ただろうか、なんてこともきいた、そんな患者はもちろん居なかったし、ひどく心配された、違うんだ、と僕は弁解した、最近何度かそんな夢を見たものだから、なんだか気になってしまって、うん…ひどくリアルな夢でさ―聞こえていた悲鳴が聞こえなくなった、悲鳴の主は死んだのだ、そう考えるのが普通だ―それからの毎日は憂鬱だった、なにもしたくなかったし、誰とも話したくなかった、もちろん僕は悲鳴の主のことなどなにも知らなかったし、気にする義理なんてなにもなかった、でもそいつの悲鳴は長いあいだ僕の生活の中にあったし、そこにはきっと僕である理由があったはずだったのだ、でもなにもわからなかった、なにもしなかった自分が馬鹿みたいに思えた、よほどひどい状態だったのだろう、いろいろな人が僕を心配してくれた、話を聞こうとしてくれる人もたくさん居た、その中には僕がなんとなく好きだと思っていた人も居たし、なんとなく嫌いだと思って居た、人ってわからないものだな、と僕は思いながら、そのすべての申し出を丁寧に感謝を込めて断った、ありがとう、でも僕自身まだこれをどんなふうに話せばいいかわからないんだ―そんなふうに陰鬱な二ヶ月ばかりが過ぎたある日、僕のスクーターが突然動かなくなった、セルのボタンの通電音が小さく聞こえるだけで、エンジンはまるでかかることはなかった、もう十年ぐらい乗ったからなぁ、とため息をつきながら、隣に置いてある自転車を引っ張り出そうとした、しばらく乗って居ないからタイヤの空気をどこかで入れないといけないだろうな、そんなことを考えながら…そのとき、乾いた音を立ててなにかが前輪のスポークの隙間から転がり落ちた、なんだろう、と拾い上げてみるとそれは綺麗に白くなった小さな生きものの頭蓋骨だった。




自由詩 御免よ、僕には気づいてあげることが出来なかった Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-11-26 22:54:04
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