なんか、いいね、ということ
腰国改修

詩、と思っている文章を所謂『自称詩人』として、これまた所謂『ネット詩人』として発表している。時折、評価を頂く。私自身も感想や批評めいたことも書き込んだりする。草詩人、アマチュア詩人の戯れ。可愛いものだろう。野にあっても気高く、信じる先に狂気あり。また、『高く想い低く生きる』とはワーズワースの言葉であったか。

そんな中、何か感想なり批評なり評価を書こうと思ってもなかなか言葉にならず(この時点で詩人として、文学者として死んでいる)正直に『何か巧く説明出来ませんがとてもよい作品であると感じました』などと書いてしまう。正直者はバカを見るどころか、正直者とは愚者であり、自爆する者ではないかとまで思ってしまう。

この『なんかいいよね』、何だかんだ言いながらも悪であろうか?或いは無礼だろうか?或いは稚拙?と考えてみる。Facebookの凄みはこれを『いいね』として商品化したことだろう。21世紀初頭の重大な言葉のひとつであると思う。振り替えれば近い過去、俵万智氏が「この味をいいねと君が言ったから」と恋人との記念日を歌った。このときには『いはいね』は存在していなかった。見方を変えれば、Facebookによって世界中に俵万智が、恋人たち的なモノが、或いは歌人、或いは詩人の要素がばらまかれたのではないかと思う。

あまり、色々深入りして批評が批判になってしまったりすると*人間関係が崩れてしまう、恋人たちもそうだろう、だから、適当な距離感で、それでも親しい雰囲気で、また、言語能力や説明する力や理論面での秀でた部分を持たなくても、一気に気持ちを伝える言葉として『いいね』が急速に浮上したとしても不思議ではなく、また、恥ずべきことでもないのではないだろうか。

まずは、他者からよくわからないけど何だか『いいね』と言ってもらえる。これ、案外大切で大変なことなのではないかなと思う。それは、所謂自称詩人からの脱出の一歩ではないかと思う。食レポ旺盛な昨今、まずは『うまい』、『おいしい』、『まいうー』でも何でもいいのではないだろうか。さすがに詩作品は食べ物のように写真を撮ってインスタグラム**にとはいかないが。

そのうちに、多くの人に気に入られる料理であるか?或いはどんな人物からの『いいね』なのか?また、感動は理路整然と必ず説明されるべきなのか?などという問題に出会い、それも乗り越えなければならないのかも知れないが、そんな先が少し見えているのなら、今はまだ『いいね』と言っていてもいいのではないだろうか?

但し、老い先短いものは除く。詩作は非情・冷酷な面も持っている。全ての神々がそうであるように。







*「批評はしても、批判はしない」という飯島勲氏の言葉。そのあとにこう続く。「これがわたしの信条だ。批判とは、無責任な会話で終わってしまうことが多い。提言がない。期待もない。批評には『こういうふうにやってもらいたい』という提言も入っている」(『官僚』2012年・青志社刊・飯島勲、大下英治 共著)

**所謂インスタ映えは、人々から『いいね』すらも奪った。所謂『見て』である。幼児が『見て、見て』と〈言う〉のに似ている。それにたいして親が、幼児にも分かる言葉『いいね』を送る。そこには一方通行の論理が支配する一種の双方向コミュニケーションが成立し、そこにおいては平和が満たされる。




散文(批評随筆小説等) なんか、いいね、ということ Copyright 腰国改修 2018-04-02 13:03:33
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