真白な記憶、落下、ああ、二度だけ鳴る。
ホロウ・シカエルボク


俺はゆっくりと落下していた、だがそれはもしかしたらあまりに高くから落ちているので、ゆっくりと落ちているように感じているだけかもしれなかった、全身を包むように猛烈な勢いで吹き抜けている風が、「もしかしたらそうなのかもしれない」ということを唯一感じさせた、それは感情のない落下だった、あまりにも感情のない落下だった、目覚めたばかりの身体をそのまま引っ掴まれて投げ出されたみたいな落下だった、視覚だけが覚醒している、そんな状態に似ていた、だが俺は眠ってはいなかったし、眠りたいという気持ちもなかった、それまで何をしていたのか思い出せなかった、ただ放り出されて落下しているだけだった、怖れも不安もなかった、ついでに希望も―スカイダイビングのようにうつ伏せになって落ちていたので、数分後か数十分後には自分の肉体が激突するだろう地面を存分に見ることが出来た、速度の中でぼんやりとようやく考えたことは、これは夢の中なのだろうか、ということだった、それならばこの突拍子もない状況も素直に受け入れることが出来るのだ、仮に、と俺は風になぶられながら考えた、仮に夢だとすれば、なにも抗うことはない、これが夢ならこれから先、どんなことが起ころうとも怖れることはない、所詮は夢の中の出来事なのだから…夢だと言い切れない理由がひとつだけあった、「それまで何をしていたのか思い出せなかった」そういうことだ、それも夢の特徴のひとつではないかと言われれば拒む理由などなかったけれど―連続していないものだから記憶として残っていないのだ、俺の知る限りそんなものが存在するのは夢の中だけだ、俺自身の精神が壊れているのでなければ…幸いにもまだ俺の精神は壊れてはいなかった、あちこち綻びかけてはいただろうが、幸いなことにまだ俺の精神は壊れてはいなかった、俺は自分でそれを認識することが出来た、わかったよ、これは夢だ、俺はそのことについて考えるのをやめた、それならばここからどうなるのかをじっと眺めてみればいい、俺はゆっくりと落下していた、次第に下に何があるのかはっきりと見ることが出来た、どうやら俺を受け止めるのは、海か、あるいは非常に巨大な湖のようだった、汚染されているのか、あるいはそこにあるのは水ではなくなにか違う液体なのか、その色は艶めいた黒だった、水面は穏やかに波立っていた、湖なのかもしれない、と俺は思った、数十年前にどこかで見た巨大な湖によく似ていた、どうやらコンクリートに激突して脳症をぶちまけることだけは避けられそうだ―高度が下がるにしたがって風が弱くなった、うつ伏せで飛んでいた俺の身体は次第に頭を下にして、高飛び込みのような体勢になった、着水までもうすぐだろう、俺は上手く水に入ることだけを考えた―飛び込んでわかったのは、それはやはり水ではなかった、そして、液体ですらなかった、プラモデルの欠片が詰め込まれた箱の中に落ちたみたいだった、だが、その形状…その感触は、俺の精神に猛烈な嫌悪感を呼び覚ました、俺は夢中でその塊の上に浮上しなければならないと思った、水でないのなら上を歩いて逃げることも出来そうだった、わかっていることは急がなければならないということだった、浮上している間につま先に激しい痛みが走った、激痛だった、落下の衝撃で骨折でもしたのだろうか?あとで確認しなければ…そう思いながらその異様な欠片の水面に顔を出した俺が目にしたのは、細長く艶めいた黒で全身を彩られた甲虫の群れだった、俺は絶望し、悲鳴を上げようとしたが、寸前でとどめた、こんなところで口を開けようものならすぐにこいつらに侵入されて中から食い破られるだろう―そして、自分のつま先がいまどんなことになっているのかということについては考えないことにした、逃げなければ、そう思ったが、静かに俺を目指している甲虫の群れは、すでに俺の動きをがっちりと封じていた、密度の高い鎖で極限まで固められているような感触だった、ああ、と俺は思った、もう俺の力ではどうにもならない…そうして全身を激痛が襲い始めた、甲虫の顎はあまり大きくはなかった、いま俺の身体を切り刻んでいるだろう牙も、外から眺めた感じではあるのかどうかすらわからなかった、そいつらはいまや俺の顔面をも我が物顔で這いずり回り始めたので、俺はそういう形状をじっくりと眺めることが出来た、甲虫には目に当たるようなものがなかった、それがあっただろう場所はただのっぺりとした丸みのある頭の一部だった、観察はそこまでだ―とでもいうように痛みはさらに激しくなり始めた、骨に達したのだ、俺にはそれがわかった、身体の中で鳴り続けていたぐずぐずという音に、カチカチという音が混じり始めたのだ、骨にも痛覚がある、俺はそのときそれを知った、こらえていた悲鳴がいつの間にか口を突いて出た、それが最期の合図だった、待ち構えていた虫共が俺の口から入り込み、食道へと潜り込んだ、俺は涙を流し、窒息し、吐き出そうとした、でも数が多過ぎた、何匹かは下まで降りることが出来ずに目玉を押しのけながらもう一度這い出してきた、体内でいくつかの線がぶちぶちと切れる音がした、涙と涎と血と体液でドロドロになりながら俺は息絶えた、そして骨まで食い尽くされた、最後に残った目玉を、二匹の甲虫が慎重に突っついた、それは派手な音を立てて割れた、白濁色の液体があたりに飛散した、まるで、クラッカーが弾けたみたいにさ…。


自由詩 真白な記憶、落下、ああ、二度だけ鳴る。 Copyright ホロウ・シカエルボク 2017-06-27 22:25:48
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