萩尾望都私論その2 選択しないフロル
佐々宝砂

書く書くと言って書けていないマンガ論(たぶん主に萩尾望都論)を書こう書こうと思っているんだけど、書けない(くどい文章だね)。本屋に注文したままほっぽらかしてある萩尾望都の最新作『バルバラ異界』を、せめて2巻までは読んでから書こうとおもってんだよね、でも、金がなくてとりにいけねぇの、つまり本屋に積ん読してあるの(情けないね)。しかたないから、前から考えていてなんとなく頭にまとまりつつあることをぱらぱら書いてみる。いや「ぱらぱら読む」という言い方はあっても「ぱらぱら書く」はねえよなあ、なんて言ったらいいのかしら。スランプなので思いつかん。

大塚英志が「アトムの命題」「フロルの選択」というキーワードを提示したときに、私はフムと一瞬納得し、しばらくたってアレッとおもった。アトムの命題は、まあ理解できる。ような気がする。しかしフロルは。フロルはなぜ選択しなくてはならないのだろう。なぜ、男か女か選ばなくちゃならないのだろう。どうしてどっちつかずでいてはいけないのだろう。『X+Y』のタクトは、最初から性を選択できない存在として生まれたから、「フロルの選択」を免れてはいる。しかし、やはり不自由な存在であることに変わりはない。いや、むしろ、タクトは、性別を自由に選択できないという点において、現実の私たちより不自由なくらいだ。現実の私たちは、本当に芯からその気になれば、(簡単なことではないけれども)自分の性別を変更することができる。

簡単に性別を変更できる存在を最初にマンガで描いたのは、手塚治虫だろう。『リボンの騎士』ではないよ、サファイアは男女両方の魂を持っていても女の子だ。『メトロポリス』のミッチィこそが、「フロルの選択」を完全に免れた、男女どちらにもなりうる存在だ。ミッチィは、アニメ映画版『メトロポリス』じゃティナという名前になっていて、レッド公の亡き娘そっくりのロボットという設定、どこをどう見ても女の子。あれはあれでそう悪いアニメじゃなかったが、あのアニメと手塚治虫の原作が同じものと思ってくれちゃ困る。マンガ版『メトロポリス』のミッチィは、そもそもロボットではなく人造蛋白からつくられた有機的な存在。しかも天使の像をモデルとして造られた。天使ですよ天使。亡き娘なぞに似てはいない。もともと男でも女でもない。そして、のどの奥にあるスイッチひとつで性を変える。あの簡単さが、私にはなによりもなによりもうらやましかった。少女のものとも少年のものともつかぬ無謀さと脆さをあわせもつミッチィ、私自身の本名にちょっとだけ似た名前を持つミッチィ、私は、結局おんなのこでしかないリボンの騎士サファイアよりもミッチィになりたかった。

ミッチィは、物語の最後で、太陽黒点の消滅により溶けてしまう。手塚治虫は、ミッチィを長らえさせることができなかったのだと思う。男女どちらにもなりうる存在、しかも有機的な存在であるミッチィは、生きながらえて成熟した場合、どうしても「生殖」という問題にぶつかる。生むのか、生ませるのか、あるいはどっちもやらないのか? 手塚が『メトロポリス』を描いた時代には、そこまで描けはしなかっただろう。

そいで話はとーとつに萩尾望都に戻る。予定なのだが、ダンナが帰ってきたのでここまで!(笑


散文(批評随筆小説等) 萩尾望都私論その2 選択しないフロル Copyright 佐々宝砂 2004-12-01 17:07:57
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