去年の駄文1 携帯電話と袋小路
佐々宝砂

(携帯電話を作っていたころの文章です。今は掃除用パッド作ってます)

そんなにこんがらがってるわけではない。話は意外にシンプルだ。私はいま、要するに、ひたすら、経済的余裕がない。簡単な悩みだろう(笑。まあ喰うには困らないよ、結婚してるし、びんぼーとはいえ夫には食うに困らないだけの金はあるし。でも夫の金は夫の金だ。私の金じゃない。

私にろくな職はない。35過ぎて事務経験がないから、私にできるのは、工場の仕事ばかりだ。あと、せいぜいがコンビニの店員だ。工場の仕事は、嫌いではない。それは、できたものが目に見える。そうして、即、金になる。報酬は少ない。それでも、報酬はある。私は贈り物がほしいわけではない。わずかでもかまわないから、報酬がほしいのだ。

でも、工場で携帯電話を組み立てながら、私はどんどんバカになってゆく。どうでもいいような私の雑学なんか、工場では無用だ。詩はなおさらに無用だ。大学の講義で覚えたことも、考えたことも、全く無用なまま、どんどん腐ってゆく。要らないから腐る。でも、本当は、私は、無用に思えるもの≒芸術が好きなのだ。携帯電話の組立よりも、コンビニ業務よりも。それをはっきり自覚できている場合、私は今のように極鬱にはならない。今はだめだ。なぜなら、今の私に、芸術と知識は、無用だからだ。私は機械のように動く。せっせとビスを締め、保護シートを貼り、カメラにゴムのキャップをはめる。私の知識は腐る。無用だから腐る。

ときどき、私自身が無用な気がしてくる。
なにもかも、とてつもなく、無意味だと思う。

なんのために軽帯電話を組み立てているのだろう。金が要るからだ。なんのために金が要るのだろう。自分の金で喰ってきたいからだ。なんのために喰うのだろう。喰わねば生きてゆけないからだ。なんのために生きているのだろう。ここで私は答につまる。生きている理由なんかわかるか。死にたいと考えるくらいなのに。工場仕事と詩を書くくらいしか能がなく、使ってもらえず、必要とされず、とてつもなく自分自身が無用だと思うのに。だが、ともあれ私は生きていて、生きてゆかねばならんらしい。

なので私は、一生懸命生きてる楽しみを数え上げる。お茶をのむこと。コーヒーを飲むこと。気が狂いそうにあつい夏の一日に、泳いで泳いで泳ぎまくること。もぎたてのキュウリにかぶりつくこと。本屋から買ってきたばかりの新刊バリバリの本を読むこと。前には常連だったスナックで朝までわけのわからん議論をすること。しかしそうした楽しみには、おおむね、金がかかる。わたしは楽しむために金を稼ごうとするのだろう、自分の金で喰ってゆきたいからなんて上記の答は嘘で、やっぱりただ、私は遊びたいのだろう、楽しく暮らしたいのだろう。人生の要不要なんて、たぶん、考えない方がいい。

そうそう、読者を心配させないために書いておくけど、
私は元気だよ。いつもより明るいよ。
考えすぎて参ってるわけでもない。むしろ今は考えたいんだ。
人生の要不要ではなく、詩の要不要についてね。

詩にははっきりした目的と必要性がある。必要だからこそ、人類の歴史に生まれてきたものなのだ。だのに、詩は人間に要らないものだと思われてくる。そう思っている人はたくさんいる。詩を書く人にも、そう思う人がいる。私も、そう思えてくることがある。特に、携帯電話を組み立てていたりするときに。携帯電話は、ものすごい数、必要とされている。だけど詩にそんな需要はない。なぜないのか? それは、詩が、本来持っていた機能を失っているからではないか? しかし、詩の本来の機能とは、いったいなんだったんだろう?

私が向かってゆく場所は、どうせはじめから袋小路だとおもっている。諦めでも悲観でもなく、ただ単純に、袋小路だとおもっている。しかし袋小路を無理矢理に乗り越えたら、新しい視野がひらけるはずだ。袋小路の向こうはもしかして見慣れた路地かもしれない、でも、その見慣れた路地を、袋小路の側から見たものはいない。

私はその景色が見たいんだ。


散文(批評随筆小説等) 去年の駄文1 携帯電話と袋小路 Copyright 佐々宝砂 2004-11-30 17:09:31
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