誘惑以前
佐々宝砂

りんごの花咲くゆうべのこと。

蛇は指環をくれた。
言葉の代わりに指環をくれた。

指環をはめると、
ぐじゅぐじゅといやな音がした。

左手は灰色に変色し、
潰瘍だらけになり、
皮膚はひどく脆くなって襤褸のように裂け、
爪はささくれ内側に食い込み、
腫れ上がった薬指、
血の滲む肉のあいだから、
わずかに見える銀色。

すぐさま蛇に返礼した。

この胸を切り開き、
一本の肋骨を取り出し、
それを環に彫り上げて、
蛇の尾にはめた。
蛇に指はなかったから。

痛みしか感じない糜爛した指先で、
蛇の鱗を撫でる。
蛇の肌は冷たくない。
蛇はわずかな時間でこの体温に馴染む。
りんごの実が蛇の背におちてくる。
甘い腐臭があたりに漂う。
痛みに震える白く腐った尾の先で、
蛇はうつろを満たす。

肋骨の環と銀の指環は、
やがて肉を屠るだろう。
骨を劣化させるだろう。

飢えたカラスが、
岩の向こうから見ている。
カラスは待っている。
今か今かと。

肉などくれてやる。

たわわに稔るりんごの実も、
ひとつ残らずくれてやる。
勘違いした女が早速りんごに手を伸ばしているが、
そんなこともどうでもいいこと。
食べたいだけ食べるがいい。

けれど銀の指環だけは渡さない。
これだけは決して渡さない。

蛇は指環をくれた。
言葉の代わりに指環をくれた。

りんごの花咲くゆうべのこと。




(連作「中有の物語」より)


自由詩 誘惑以前 Copyright 佐々宝砂 2004-11-13 17:19:56
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