いかにも どうでもいい話
佐々宝砂

どうでもいい話に自分でも飽きてきた。全然続いてないけど、最近自分で興味のあることを書いてみる。やっぱり、どうでもいい話である。

チャットしていてキッチュの話が出て、ああ私はキッチュを目指してるけど実はキャンプしてるに過ぎないかも、と思ってるけど、実はキャンプを目指してるのにキッチュなのかも、とややこしいことを考えてしまった。そうそう論理的にできてる人間じゃないので、考えると頭がこんがらがる。

キッチュが俗悪な後衛で悪趣味を指し、キャンプがキッチュを故意に取り入れた一種パロディ的なもの、フォーマリズムとも関係するような前衛を指す、というのは一面的な見方なのかもしれない。その手のことについて語るなら、ソンタグの『反解釈』読まないといけないなあと思うけど、読んでない。うー。読まねばならんものばっか。

なんも考えないで書かれた「いわゆる」ポエムがキッチュであることは確かだ。そして私は「いわゆる」ポエムがわりとすきだ。バカバカしくて笑えるから? 一面はそうだ。瞳におほしさまキラキラ背景にお花とびまくりの昔の少女マンガみたいに、「いわゆる」ポエムはとっても可笑しい。可笑しいけど、私はそれがすきだ。可笑しいから好きなのじゃなくて、なんでだろう、どうしても自分で肯定したくないある理由により、好きだ。いやんなっちゃう。この矛盾した趣味がキャンプなのかしら。

はっきり理論的なこと言えないけれども、私はたぶん、キッチュが何かを感覚的に理解してるとおもう。そして、はっきりわかんないまま、キャンプを実践しようとしてるとおもう。だけどはっきりわかってないから、キャンプになりきれずキッチュなのだ。だけど半端に理解してるから、やっぱりキッチュになりきれずキャンプなのだ。ああややこし。めんどくさ。

どこまで意図的にできるか?
あるいは、どこまで忘我になれるか?

どっちもむずかし。


散文(批評随筆小説等) いかにも どうでもいい話 Copyright 佐々宝砂 2004-11-12 03:19:27
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