もっと どうでもいい話
佐々宝砂

「どうでもよくない」話ばかり書いてきたので、今度はほんとに「どうでもいい」たぐいの話もしてみる。「どうでもいい」の定義というのは、だいぶ見えてきたと思う。当人に無関係で距離が遠く、人命に関わりなく、知らなくても人生をちゃんと送ることができ、興味もひかず、昇格や試験で困ることもない。まあそういうのが私の考えるところの「どうでもいい」である。某番組の無駄知識にやや近い気もするが、私はあの番組、もう飽きた。まあそんなことどうでもいいか。「どうでもいい」と無駄知識は、微妙に違う。たとえば数学知識なぞは、たいていの社会人には「どうでもいい」。しかし数学を必要とする一部社会人と学生には、切実に「どうでもよくない」。私にとって数学は「どうでもいい」もので、だから私はいいかげんな態度で数学が好きだ。

それはさておき、この「どうでもいい話」シリーズは、二番目以降のタイトルが「さらに」とか「また」とかをつけて続いている。このスタイルは、團伊玖磨の名エッセイ集『パイプのけむり』の真似をしようとしたものだ(『パイプのけむり』全タイトルは、こちらhttp://www.t-webcity.com/~pipedan/other/paipu2.HTMを参照のこと)。時代に反して煙草好きを主張するなら、『パイプのけむり』くらい読んでおいたほうがいい。煙草吸わなくても、日本人が書いたエッセイのひとつの最高峰であることは間違いないシリーズだから、時間と機会があったら読んでおいたほうがいい。

と書いておいて、矛盾したことをへーきで続けるのが私なのだが、『パイプのけむり』なんて、ほんとは読んでも読まなくても「どうでもいい」書物である。嫌煙が広まっている昨今、『パイプのけむり』はどんどん忘れ去られてゆくだろう。團伊玖磨がまだ生きていて、『パイプのけむり』新刊が訥々と出版されていたころ、次のタイトルはいったいなんだろうと読書人のあいだで話題になっていたことなんかも、どんどん忘れられていくのだろう。「どうでもいい」ことはどんどん忘れられてゆく。そう必要とはされていないから、忘れられてゆく。

「どうでもいい」と「どうでもよくない」の違いは、個人と密接に結びつき、また、時代と密接に結びついている。ファッションの流行について考えてみるとわかりよい。今年の流行は「どうでもよくない」けど、三十三年前の流行は「どうでもいい」ですわな。でもファッションの研究でメシを喰ってる人にとっては、三十三年前の流行だって「どうでもよくない」。流行というものは繰り返すものらしいので、新しい流行を作り出す人にとっても、過去の流行の研究は大事らしい。ま、私にはどうでもいいし、単に流行を享受する人にとってもわりと「どうでもいい」。だが、一部の人以外には忘れられてしまった「どうでもいい」が、ある日突然「どうでもよくない」に変貌することがあるのは確かだ。

場所がかわっただけで「どうでもいい」が「どうでもよくない」に変貌することもある。日本では「どうでもいい」過去の遺物になってしまった、上総掘りという、竹と人力のみで井戸を掘る技術があって、これをアフリカに伝授しようという試みがある。これには、竹のないアフリカになんでわざわざそんな古い技術を伝授するのじゃ、アフリカをバカにしとるんちゃうかという反対意見もあり、それもわからないではないけど、一応の成功を見た試みではある。少なくとも、なんにもしないよりはいい。過去の遺物で「どうでもいい」上総掘りだって、場所によっちゃ「どうでもよくない」役立つものになりうるのだ。


だが、『パイプのけむり』も、過去のファッションも、アフリカも、どうでもいい人にはどうでもいい話である。どうでもいい人には、もしかしたら全世界の99%くらいが「どうでもいい」のではないかしら、と私は危惧する。鬱病の人は自分自身だけが「どうでもいい」ので、それとは違う。なんもかんも自分自身以外は「どうでもいい」という状態で、でもまっとうに生活を送ってる人って、確実に世の中にいるようだ。そういう人には、鬱病とは違う意味での問題があるような気がする。

というわけで、次は、そういう人のことを考えてみる。


散文(批評随筆小説等) もっと どうでもいい話 Copyright 佐々宝砂 2004-11-07 12:13:27
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