また どうでもいい話
佐々宝砂

衣食住は「どうでもいい」話ではない。いま新潟の被災者のみなさんは、切実にそれを感じているだろう。阪神大地震の経験者も、身をもって衣食住の大切さを知っているだろう。しかし、衣食住という人間の最低の基本が「どうでもいい」と感じられてしまうオソルベキ状態、も存在するのであった。

たとえば、鬱病のとき。鬱が最悪になると、食欲がない性欲がない、着替えも歯磨きも「どうでもいい」。自分が大事だと思えず死んじゃいたいような状態なのだから、自分のことなんか、ほんとに「どうでもいい」のである。そのくせ、自分のまわりの状況はけっこう見えていて、「ゴミ出しにも行けない私は家族に迷惑をかけているなあ」と考えたりする。それが嵩じると「ゴミも出しにいけないなんて死んでしまおうかしら」となったりする。笑い事ではない。本人はおーまじめである。自分の命よりゴミ出しの方が重要事に思えているのだ。ゴミ出しと自分の命とどっちが重要か、まともな頭で考えたらすぐわかることなのだが、鬱真っ最中だとわからない。少なくとも、私にはわからなかった。

鬱病は個人の問題だからまだ被害が小さいし結論もわかりやすいが、これが大きな単位になると被害甚大、問題もややこしくなり結論を出すのは容易でない。人の命は「どうでもいい」が、ある特定の宗教は「どうでもよくない」と言われたら、日本人の半数以上が反対するだろうけれど、人の命は「どうでもいい」が、国家は「どうでもよくない」、と言われたらどうなるか。私にはちょっと予測がつかない。実際の話、香田証生さんの命は、自衛隊派遣と較べて「どうでもいい」と判断されたわけで、私は香田さんを弁護するつもりは露ないけれど、あの事件が、人命と国家の重要事を天秤にかけて人命が軽くなってしまう時代のはじまりを告げることになったらどうしよう……と思ってちょっと焦っている。焦ってもしかたないんだけどさ。

当たり前の基本をもういちど確認したい。もっとも「どうでもよくない」話は、人命に関わることだ。

衣食住が「どうでもよくない」のは、それが人間の基本だから。人は食わんでも生きてゆけると主張する不食主義者もいるにはいるが、ふつう食わねば死ぬ。食うために命を落としたら、ものすごく、切ない。どこかいい場所に住むために死んだら、それはそれで切ない。住む場所の重要さは、災害のときに認識できる。報道されているように、車中泊を続けているだけで、死ぬ人は死ぬのだ。しかし、自分の着たい服を着るために命を落としたら、びみょーにバカである(話は逸れるが私はそういうバカが好きだ)。人は、拾った服を着ても生きてゆける。気候のよい土地でなら、最悪、服がなくても生きてゆける。つまり、衣食住のうち、いちばん「どうでもいい」のは「衣」である、という結論が出そうに思うが、そうでもない。極寒の地で、衣の差異は生死を分ける。

必要最低限の衣食住は、なにはともあれ絶対的に「どうでもよくない」ものだ。相対的なものではない。多少の差はあれ、誰にとっても絶対に必要だ。しかし、最低限をちょっと飛び出すと、それは「どうでもいい」かもしれないものになる。不必要なほど、というより危険なほど高カロリーだが、すばらしく美味な食品。不必要なほどのミネラルやビタミンを含むサプリメント。高級建材を使った豪邸。高価な美術品だらけの家。人気デザイナーによる最新ファッション。毛皮に宝石。そういうものは、いかに美味でも高価でも芸術的でも、人命に較べたらかなり「どうでもいい」ものだと思われる。

いきなり翻って、詩はどうかというと、こりゃかなり「どうでもいい」部類ですわなあ。言葉自体はとても重要なもので、必要最低限の意志を伝えられなきゃ死ぬ場合もある。でもたとえば筋萎縮性側索硬化症(ALS)の末期患者で、すばらしく行き届いたケアを受けているとしたら、意志を全く伝えられなくとも生きてはいられる。でも、それでよいですか。話すらできないわけよ。ポタージュくらいは食べられるとしても、ものを食べる楽しみほとんどなし。カラオケもできない。セックスもできない。パソコン使ってインターネットで詩を発表するなんてことでもしなけりゃ、生き甲斐ないよ?

てなわけで、なにが「どうでもいい」で、なにが「どうでもよくない」なのか、また謎になったところで、次回。


散文(批評随筆小説等) また どうでもいい話 Copyright 佐々宝砂 2004-11-06 14:22:00
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