それこそ どうでもいい話
佐々宝砂

何日か前の朝日新聞朝刊の広告に、『不食−人は食べなくても生きられる』というおっそろしいタイトルの本が載っていた。数年ほど前にも同様の話を朝日新聞のコラムで読んだ覚えがあり、あまり驚きはしなかった(私は、そういう「どうでもいい」ことに関して、やたら記憶力がいいのだ)。ただ、不食なんて修行僧みたいなこと実践してる人がいるのねーとある意味呆れ、ある意味感心した。現在の私は喰うのを人生の楽しみのひとつにしてるので、喰わんで生きてゆけるとしてもそんなつまらんもん実践する気はさらさらない。それは私個人の好みの問題だが、もしも本当に本当にだよ、本当に食べなくても人が生きてゆけるのだとしたら、不食生活の正しい方法を知っている人々よ、とっとと世界中の飢餓地帯に行って布教してこいよ。こんな食い物にあふれた国で「食べなくても生きてゆける」なんて話は、それこそ「どうでもいい」わい。食い物がない場所でこそ、「不食」は役立つのとちゃうか。読まないで批判するのは好きではないけど、この手の本、私は好きでない。読みたくない。

ふつう食べねば痩せる。痩せたければ食べなきゃよろしい。やればできる。少なくとも、私にはできた。しかしあまりに痩せると(女性の場合)月経が止まる。少なくとも、私は止まった。しかし本人は気分がよかった。どんどん痩せる。体重計にのるたび痩せてる。全くさいこーに気分がよかったね。私、身長が164cmなんだけれども、いちばん痩せたときは48kgくらいだった。私はかなり幸せで、自己評価も高くなっていて、私ってけっこうもてるのメガネ外せば美人よと思っていたから、化粧もしなかった。実際そのころはわりともてた。19歳から25歳くらいのころだ。しかし、私はその後、結婚と同時に過食に走りぶくぶく太った。そして、あっというまに鬱病になってしまった(もともと拒食になった時点で鬱になっていたのかもしれないが)。

修行僧的な生活は、意外に気分がよく気楽でせいせいしたものだ。一方、享楽的で怠惰な生活は、気分が重くつらく、どよーんとしている。拒食と過食の双方を経験した私にとってどっちが快楽主義的かというと、どうも修行僧的な拒食のような気がする。やるべきことをやってると思ってるから罪悪感はない、やらない方がいいようなことはやってないと思ってるからやっぱりその点でも罪悪感がない、しかも自分は健康で、人に何か信念を伝授して歩いてるならそれで生き甲斐も得られて、あるいは信念に向かって突き進んでるならそれはそれでやっぱり生き甲斐で、ああ修行僧ってなんて幸せな身分だろう。

冗談じゃねえわ。

そんなにせいせいしてしまった状態は、なんか間違っている。やるべきことなんかあふれかえってるじゃないか。まずはとっとと新潟に金送れ。台風被害にあった土地にボランティアに行け。スーダンダルフール地方紛争の避難者に金送れ。世界各国のストリート・チルドレンを援助しろ。劣化ウラン弾による被害者を救援しろ。そんなにいろいろできるか? できねえ。できるわけがない。なので、人は多少の罪悪感を常に持っているのが当たり前なのだと私は信じている。やらないでいるほうがいいことだってくさんある。まず、自家用車に乗るな。牛肉食うな(BSEとは無関係に、牛肉の生産にはたくさんの穀物が必要なため、牛肉食べるのやめて穀物を食べるようにするだけで、世界の食糧事情はいくらかよくなるらしい。また、牛のオナラは地球温暖化に一役買っているらしい)。灯りつけるな。パソコンやるな。なんて言っても無理な話で、私はいまこうしてパソコンを使って下らぬ自己主張をしている。

「不食」が本当であれ嘘であれ、私はそれが好きじゃない。健康であろうとするのはいいことだ、いいことだとおもう、でも、なんだか、きらいだ。自分は正しい、と信じているようなところがきらいだ。正しいのかもしれないけれど、きらいだ。

何が「どうでもいい」のかわからなくなりつつあるが、今回のは寄り道。


散文(批評随筆小説等) それこそ どうでもいい話 Copyright 佐々宝砂 2004-11-08 16:57:50
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