PIGSTY③
暗闇れもん

「YUSUKE」

祐介。5歳離れたかわいい弟の名だった。
赤い首輪だと思っていた。けれど、手についた赤い液体と鉄臭さがその間違いを証明していた。
足が自分のものじゃないみたいに震え始めた。
携帯を持つ手も震え、何度も何度も地面に落としそうになりながら震える指でボタンを押した。
「帰りが遅くて心配していたよ、綾香どうした?」
お父さんの声が聞こえても声が喉に張り付いてしまったようにでない。
「綾香どうした?」
私は生唾を飲み込み、自分を叱りつけ、ようやく声を出すことに成功した。
「…祐介は?」
次にお父さんの声が聞こえるまで、私の心臓は壊れそうなほどにまでなっていた。
「ん?祐介はちゃんと家にいるぞ。本当にどうした、綾香?」
私は携帯を持ったまま、その場に崩れこむと安堵と恐怖で声を上げて泣き続けた。


泣き声で血相を変えたお父さんが、私を探しに来てからは時が早く過ぎていくように感じた。
警察で事情を話すと年配の警官は「おそらく悪質ないたずらですね」といい、お父さんの「大事な娘がこんな目にあったというのにそれだけですか!」という怒鳴り声にもあいまいな笑みを浮かべただけだった。
私はその時、別の警官がかかってきた電話に向かって小声で「大丈夫です。はい、全て計画通り順調に…」という声を聞いた。
その時はその言葉の意味も重さも気付かぬまま、私はその言葉を記憶の隅に封印していた。

今なら分かる、その恐ろしさを…。

首輪は年配の警官に一応証拠として押収された。
今考えると、あいつに不利な物を消すためだったに違いない。
けれど、その時の私たちには年配の警察官の「おそらく悪質ないたずらですね」という言葉と疲労感だけが残された。
異常な事件であるはずなのにニュースにもならず、数日後、警察から首輪の血は豚の血であると知らされ、捜査の打ち切りを告げられた。
数日前には警官に怒鳴っていた父も静かに何かを考え込む顔で電話を切った。
お父さんは警察から帰った日の夜に「しばらく綾香の塾の送り迎えをすることにした」と宣言し、困惑するお母さんに「戸締りには十分注意して、何かあったら祐介とお隣の金森さん家に逃げろ」と言い、祐介には「どんな理由があっても知らない人には絶対ついていくな。しばらくは寄り道せずに帰ってお母さんとお姉ちゃんを守れ」と約束させた。
お父さんには何か予感めいたものがあったのかもしれない。理由は分からないが何か危険が私たち家族に迫ってきているという漠然とした不安があったのかもしれない。
それほどその時のお父さんには、誰も逆らうことなど出来ない気迫があった。
お父さんの言葉通り、その日から私は塾の行き帰りを送ってもらうことになった。
今まで何だか嫌でめったに話してなかったのに、その日からはお父さんとよく話すようになった。
学校で起こったこと、友達のこと、どんな話もお父さんは嬉しそうに聞いてくれた。
そしてある日、お父さんにクラスにいる好きな人の話をした時、お父さんは予想に反して嬉しそうな顔をした。普通、お父さんって娘の恋愛は複雑なのかなと思っていただけに驚いた。
そんなお父さんの反応を見て、ずっと聞きたかったことを今がチャンスと思わず聞いた。
「お父さんは、お母さんと初めて出会った時どうだった?」
するとミラー越しにお父さんの少し照れた顔が見えた。
「今まで誰にも秘密にしていたけれど、母さんに初めて会ったのはお見合いじゃなく、本当はもっと前に一度会ったことがあるんだ」
「うそ!!どこで!!」
「綾香は父さんが昔から絵を好きなことは知っているだろう?」
「うん!」
私は書斎に色々な画家の画集がお父さんの描く油絵と一緒にあったのを思い出して頷いた。
「母さんとは外国の美術館にある、一枚の絵の前で出会ったんだ」
お父さんは急に振り出した雨に少し嫌な顔をして、ワイパーを動かすと、ミラーで私を確認して話を続けた。
「それは、クレーという画家の金色の魚という絵だった。その絵を一目見たときに父さんは金色の魚の美しさに目を奪われたのと同時にその背景から孤独を感じたんだ。その絵は金色の魚から他の魚が離れていく様子が描かれているんだよ。父さんは絵の専門家ではないから解釈は間違っているかもしれない。けれど、何故かその絵が孤独を描いている気がしてならなかった。そして今まで誰かを無性に探してきた自分に気付いた。そんな時、同じようにその絵の前で動かない女性を目にしたんだ。それが母さんだった。勇気が無くて話しかけることが出来なかったから、母さんはきっと知らない。けれど父さんは、ずっと忘れられないんだ、あの時の寂しそうな母さんの横顔を。今思うと父さんは、もう既に母さんに心を奪われてしまったんだろうなあ」
「お父さん、本当にお母さんを愛しているんだね」
「だからな、綾香も好きな人が見つかって父さん、本当に嬉しいよ」

その時に満面の笑みを浮かべたお父さんを思い出し、綾香の目に涙が込み上げてきた。

もういない。誰もいない。
もう誰も私を助けてくれる人はいない。
私の愛する家族の命はあの狂った男の手に委ねられている。
どうにかしないと。
綾香の頭にはその言葉しかなかった。
せめて友人の直子の安全を確保したかった。
けれど私に何が出来る?
権力もお金もあるあいつにどうしたら勝てる?
どうしたらいい。
どうしたら彼女を救える。
どうしたらいいの。


散文(批評随筆小説等) PIGSTY③ Copyright 暗闇れもん 2009-10-31 20:53:35
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壊した世界