あなたには

あなたには支柱がないのです
あなたには支柱がなかった
腕時計を忘れてきて気付かなかったけれど
僕はもうこんな時間まであなたを抱きしめていた
あなたには支柱がなかった
だからいつまでも抱きしめていたかった
けれどもくたくたと腕の中でくずおれてしまった
あなたには僕は不釣合いだったのです

台所であなたの匂いのする両手を洗った
あなたの温もりが感じられなくなるまで
繰り返し繰り返し洗ったけれど
あなたの匂いがいつまでも消えないので
包丁で手のひらを斜めに切った
吐き出された血の色は退屈そうだった

あなたには子宮がないのです
あなたには子宮がなかった
生まれる筈もない僕たちの子供
遺伝子の螺旋に哀しみを刻み込まれ
生まれ来るはずだった僕たちの子供が
下水道の中に溶けて流れてゆくのを
ただ黙って見つめていた
あなたには僕は不釣合いだったのです

部屋の中であなたの匂いのする体を拭いた
あなたの気配が感じられなくなるまで
体も指もドアノブも受話器も
すべてエタノールで拭き取ったけれど
あなたの気配がいつまでも消えないので
傷だらけの手首にエタノールをぶちまけた
刺すような痛みには覚えがあった

あなたには心がなかったと気付くまでに
どれほどの時間がかかっただろう
さようなら もう二度と会うこともないだろうけれど
あなたが僕の体に残した
匂いと気配と痛みが消え去るまで
あなたの残骸を撫で続けながら
あなたの輪郭を目で追いながら
さようなら


自由詩 あなたには Copyright  2009-04-04 21:32:22
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