アブシの涙
狸亭

アブシの涙を忘れない
ミスター・アブシの

ベイルート市
ハムラ通りを
エトワールから海岸通りに向かって行くと
左に折れる路地があり
道なりに坂をだらだら登って行くと
右手にケントホテルがある
三流ホテルの二階の隅のさびしい部屋に
パジャマ姿のアブシを見舞う

プロデコ広告社の贅沢な社長室で
アブシはいつも
ダンディーな身ごなしで
大きなソファーに座って
応接は優雅
英語は明晰
秘書はとびきりの美女

アブシは生涯
独身主義を貫くのだという
四十歳をすぎてなお
なぜにアブシは独身か

初恋の人が忘れられぬためではない
プレイボーイを愉しむためではない
女嫌いでもなければ
ホモでもない

パレスチナの高い夜空に
星はびっしりつまっていて
おじいさんや
おばあさんや
父や母や兄弟や姉や妹や
大勢の家族たちの夕餉
みんな大声で
星がばらばらおちてきそうな
幸福な夜

阿鼻叫喚が襲ったという
シオニストたちがやって来たのだという
とつぜんに
ある日とつぜんに一家離散
アブシは一人になったという
アブシはだから
一人の係累も持たないし
持ちたくもないのだという

三流ホテルの固いベットに座って
アブシの頭は禿ている
暗い電灯に光っている
両耳のつけ根にかろうじて
わずかな髪の毛がへばりついている
今日のアブシはやけに小さい
アブシの涙を見た

もう十年以上もすぎたのに
なぜにいまごろ
アブシの涙を思い出すのだろう


自由詩 アブシの涙 Copyright 狸亭 2003-09-23 10:13:47
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