昨日の痕
久遠薫子



低い空に積乱雲が育ちはじめる朝
目が覚めたら痕跡はなくなっていた


夢じゃない証拠をさがして
扉をあけて外へ出たり
勝手口へまわったり
冷蔵庫をあけてみたり
蛇口をひねったりした
コバルト色した海の水は届かず
森の草いきれも届かず
流れたのはただ
生温かい体液だけだった


明日戦争へ行くという子を
娼婦のふりして抱いてあげた
海底に沈む遺跡のような目をして
充分にうるんだその黒真珠の瞳に
地球の裏側の
小さな太陽を映して


甘く噛めば
甘く噛みかえし
きつく噛めば
きつく噛みかえす
取り乱したのはわたしのほうだった



海は眠らず
いまこそ ありのままの姿をさらし
やさしくない腕をのばして わたしたちを呼んだ
苦しくはないからという言葉に こくりとうなずき
ふたつの体はゆっくりと まわりながら沈んでいく
あけていく夜の終わりが 届かぬよう



中空にそびえる積乱雲が
手負いの人々の声を孕んで いよいよ膨れあがる
囁きは 透きとおったコバルト色の蒸気になって
もうすこし 空のあおさをあおくする
そんなにむずかしいものを欲してきただろうかと
光の中で倒れ込んだ裸のわたしに
昨日の痕は
ひとつ
ふたつ


見ろ見ろ、これがすべてだ、と泣いた



自由詩 昨日の痕 Copyright 久遠薫子 2007-09-04 08:50:22
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