忌々しきは恋の凶事
錯春


    コノゴロ巷デ流行ルモノ
    恋スル乙女ノ消失
    猛暑ユエ蒸発ノ可能性アリ
    マコト 忌々シキ事態デアル

 まったく、全然興味が無い文面が、どの新聞を見てもズラズラと連なっていた
 コノゴロゴロデルルルモノスルスゴロ
 巷猛発蒸発消失
 忌忌々シキ可能性ノショウシツデアル
 文面はほぼ同一で、同一の文面は繰り返されるサイレンさながらに目蓋にはりつく
 
 恋する乙女のショウシツ……
 
 その文面に漂う色香は只者ではない
 おぼこい僕はすぐに熱を出してしまい、畳に倒れた
 そんな僕を見て、母は
 たぷりたゆとうヤカンを額に乗せてきた
 お湯を沸かすためであるらしかった
 何事も省エネ推奨される時代である
 致し方有るまい



 どうもこうも恋というものはまったくもっていいところがない
 僕が熱を出すのも、うたた寝から覚めると耳朶から花が咲いていることも
 すべては恋愛という凶事の所為である
 姉などは、今の旦那との結婚を反対されていた時期は
 爪は貝殻に
 舌は朱肉に
 髪はシルクに
 瞳は深海魚の如く深い灰緑色に変わったほどである
 ある夜、
 肩甲骨が痛いので確認してはくれまいか
 と不意に起こされたときは閉口した
 白々と月の光に浮き出したその華奢な肩と肩との中間に
 カゲロウのそれらしき羽虫の羽が浮き出していたのである
 僕は両親の寝室へと一目散に走った
 婚約が許されてからも、姉の背中はしばらく戻らなかった
 ケッタイなものだ
 だがそれは姉ではない
 すべての恋がケッタイな所為だ



 春志乃はるしのという女学生が、向かいの家に下宿をしている
 気立てが良い子だ、額も白いし髪も豊かで腰まである
 彼女とは近所のジャズ喫茶で出会い
 舞踏家大野一雄について大いに歓談したのが始まりである
 緑色が透けるような肌色をしていて
 その肌色は姉のカゲロウ羽を彷彿とさせたので
 まさか 君 虫になろうとしているのではあるまいね
 と、問うたらば
 きょとん、とした後コロカラ笑い
 貧血が酷くて血が止まりませんの
 と唇をヒソヒソさせて答えた
 それはいけない。こんなところで油をうっちゃってる場合ではない。然るべき処置をするべく医院へ行かなくては。そうだそうだ。餅は餅屋、病人は病院。
 僕は狼狽え捲くし立てたが、彼女は吼える子犬でも見るような優しい目つきで
 
 女子には七日血が止まらなくても大事ではない傷口が生まれながらございますのよ

 あのときの、淡く紅に染まった目蓋を見たのがいけなかった
 目蓋を閉じると魘されてかなわない
 最近の女人の深淵はまこと怖ろしいものである
 しかし
 彼女の姿を最近見ない
 もしや流行りのショウシツとやらに飲み込まれたのではなかろうか
 いてもたってもいられずに
 僕は暮れる道へと乗り出した



 すべては恋がいけないのである
 すべての女子、男子が年頃になると奇天烈な事象を呼び起こすのも、要因は一概にして恋に他ならない
 恋をする若者が可笑しいのではなく
 若者が呼び寄せる恋が可笑しいのである
 僕の乏しい経験からすると
 恋に焦がれる女子は得てして虫になりたがる傾向があるようだ
 私は貝になりたい、と昔はよく言われたものだが、
 昨今ではそれは最早廃れたらしい
 馴染みのジャズ喫茶、色褪せた校舎、河縁にもおらず
 僕はもう半ば諦めかけて最寄の神社へ行き着いた

 ふと 御神木の麓へ目を向けると
 青白く発酵する茸がいっぽん、ひょろりと生えていた
 あわや、と駆け寄り掘り起こすと、赤いリボンと一房の黒髪に包まれた蝉の蛹が出てきたではないか
 春志乃さんのセーラー服にはためいていた それであった
 もう手遅れであったのだ
 彼女は想い焦がれて蝉になり、こうして冬虫夏草に寄生され、その花のような魂に、暗い帳を下ろしてしまったのである
 ああ やるせない なんとせつない
 一体どこの野郎が彼女をこんな姿に変えたのだ
 僕は柄にも無くめそめそ泣いた
 めそめそ泣いたはずなのに、零れるのは涙ではなく、ヒカリゴケの胞子であった
 ヒカリゴケの胞子は土へ落ちる前に ふわり と浮かび上がり
 金色の萌黄色の糸を引き、僕の周りを覆った
 


 まぁ なんて見事なヒカリゴケ。

 飛び起きると
 長かった髪をばっさり切り落とした春志乃さんが、リボンの無いセーラー服姿で しゃなり と立っていた
 
 「おまじないを掘り起こすなんて無粋ですこと。」

 シャム猫の佇まいの儘、彼女はカラコロと笑った
 
 「どうして髪を切りなすったんです、辛い恋でもしたのですか。」

 「女が髪を切るのは何も失恋に限ったことではございませんわ。」

 「だからって、勿体無いほどの緑の黒髪であったのに、切るのに如何程の理由があると言うのです。」

 「あら、忘れてましたの?呆れたこと。私の試験が終わったら、暮れた頃に境内で逢いましょうと仰ったのは貴方ではありませんか。」
 
 彼女は僕に纏わりつくヒカリゴケを掻き分けると、僕の手をとり立ち上がらせた


 似合いませんこと?短いのもきっと映えると、貴方が仰ったのよ。


 彼女の手は変わらず細く、魚の骨のように繊細で冷たかった
 よくよく見ると、爪が桜貝へと変化しているではないか 
 境内の奥、賽銭箱の辺りに 碧く発光する巨大なオニヤンマの羽が落ちているのに気付く
 だがそんなことは関係ないのだ 何もかも
 ヒカリゴケが鬱陶しいほどにビカビカと光っている 
 僕は彼女を抱き寄せて言うのだ

 「ああ、お似合いですとも。とてもとても見惚れてしまう。」

 

 すべては恋愛という凶事の所為である。








自由詩 忌々しきは恋の凶事 Copyright 錯春 2007-08-20 00:19:44
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