ドリーはせせら笑う。
錯春


どうしても顔も名前も思い出せない人がいる。感覚だけが確かで、ただ単に興味が有ったという感覚だけが確かで。
 それは片思いをしていたあの隣のクラスの子だったような。ちょっとだけ付き合ってキスも出来なかった文通相手だったような(はたして文通だけで交際した、と言いきれるかどうかは、現代じゃ難しいだろうけど)。もしかして同性愛者なのか?と危惧させてくれるくらいに、気高かった幼馴染のような。
 
 ともかく思い出せない人が居る。
 それらの人達は、それぞれ顔は覚えているのに名前が無い。皮膚を覚えているのに温度が無い。瞳を見ているのに影が無い。

 でも、思い出せない人達は優しい。
 やさしくてきれいな思い出だけを残しているわけじゃない、
 だからヤサシイ。



 僕は、思い出せない人達に混じって、ふと、ドリーのことを思う。
 ドリーは金色の光ファイバーの繊維、食器のように柔らかいカーブを辿る睫毛、そして真っ黒な肺臓。
 彼女は肺癌で死んだ。
 まだ10歳にもなっていなかった。
 子供はいたが、その子の行方は定かではない。
 ドリーは世界で一番有名な羊で、その姿はどこにでもいる儚げな瞳を持った羊の姿をしていた。
 ドリーは儚げな羊の格好をした、本当に儚げな仕掛け時計だった。
 僕は逢ったことの無いドリーのことを思い出す。鮮明に思い出す。彼女は白いドレスを纏い、煙管を吹かし、炎症を起こす関節に障らないように、いつも真紅のソファーに座っている。
 ドリー。
 ドリー。ドリー。
 僕の世界は、僕の見えるところまでしかない。そう、宇宙も見えるところまでしかない。僕は火星人を見れなかった。
 昔の偉い哲学者は言ったんだ。そのモノの存在を、姿を、鮮明に思うことができれば、それはもう存在しているのだと。
 詭弁だろうか。
 ドリー。
 睫毛に、夜霧が玉を作って、星を映しているんだ。



 僕はドリーに会ったことが無い。僕が会ったことがあるのは、真っ直ぐに立って、暮れていく夕陽に向かって吸殻を捨てるドリーだ。
 吸殻は陽の光の逆光を受けて、なのにその影は光に紛れることもなく、どこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも暗かった。
 あの吸殻が消えたら、
 助かるんじゃないかって、そう思ったんだ。
 ドリー。
 もしかしたら、本当に君はあのドリーだったのかい?
 君は2003年のバレンタインを境に姿を消した。テレビでは、誰もが
「かわいそうなドリー」
 と言っていたけど、誰の目も涙をためてはいなかった。
 あの日、泣いたんだ、僕は。
 確かに泣いたんだ。



 僕は、あの日を境に、何かが圧倒的に回転してしまったように感じる。
 何も変わっちゃいない。
 何も変わっちゃいないのに。
 マーズアタックは起こりはしなかった。
 君は、嘘吐きでとびきり優しかったから
「あの夕陽に見えるもの、あれは本当はね。火星なのよ」
 最後のときも、そうやってせせら笑って慰めてくれた。
 ドリー。
 ドリー。
 僕は忘れたくない。
 哲学者が言ってたんだ。嘘は信じた瞬間に本当になるって。
 忘れてしまった優しい人達に混じって、君に消えて欲しくない。
 僕は君を忘れないために、いつでも思い出しているために、今日も朝起きて夜死んでまた朝になると起きるんだ。
 優しい人達は、忘れられていく瞬間も、僕を咎めたりはしない。
 ただ、そっと、存在すら消えていくだけ。
 あれは夏で、蝉が特別うるさくて、僕はいつまでたっても広がらない他人の下腹部をしつこくいじっていた。汗ばかり流れて、苦い失敗の記憶は流れることはなかった。
 あれは夏で、クーラーなんてたいそうなものは持ってなくて、若い人達は不自然に豪奢なレースの厚着をして、リストカットを趣味にしていた。
 あれは夏で、涙も鼻水も何のありがたみも無く、その宝石みたいな価値もわからずに垂れ流して、罵りあうことこそコミュニケーションだと信じていた。

 あれは夏で

 僕は
 あの夏の優しい人達を
 狭い入り口を
 饐えた匂いの袖を
 キッチンペーパーに沁みた血を
 あれは夏で
 塩水なんかじゃなく、それは涙だったんだと、
 今なら言えるのに
 あの優しい人達の名前を
 思い出すことが出来ない。



 ドリーが呼び鈴を鳴らす。
 ドリー。
 ドリー。ドリー。
 君を忘れるのは嫌だ。
「唇が荒れてるわ。胃が弱ってるのよ」
 優しいドリー。
 ひづめは冷たくて心地良い。

「本当は忘れてって思ってるの」

「本当はね」

「でも今のところはここにいるわ」

「貴方が呼ぶんだもの」

 

 もう煙草を欲しがらない君を見て、僕は必死に気付かないようにしている。
 ドリー。
 我侭なのは百も承知さ。
 ただ、慰めてよ。
 せせら笑って。



 僕のドリー。




     (クローン羊のドリー、
      2003年2月14日、
      安楽死で永眠。
      ※この詩は
      『ドリーは吸殻を捨てる』
      の続編です)  


自由詩 ドリーはせせら笑う。 Copyright 錯春 2007-08-05 01:09:37縦
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