月視
チグトセ

あなたの住むマンションまでやってきた

あなたに食べてもらおうと思って焼いたクッキーは
人生で初めて焼いたクッキーは
思う以上に手間取り
夜になってしまった

マンションはほとんど街のはずれの海辺に位置した
暗みの中で無言の姿が月射に浮き
硬質の縁は火照って紫で
鋭利な線がすとんと底の茂みに向いて落ちていて
目をこらせば薄ぼんやりとしたカーディガンのような影が、角張って貼り付いているのがわかった
背後に見える輪郭だけの鉄塔は首を傾いで眠っていて
宇宙の光は今夜あまり届いていない
ここからマンションまでの黒い距離と黒い森は小さくて
目立ちはしない
たくさんの人間が穴ぼこをつくって暮らしているその一枚岩は、綺麗だった
無色に綺麗だった
何者もここまでやってきた僕を案内せず
僕はそっとしておかれ
だから安心して眺めた
そうして安心して眺めた時間はとろとろと過ぎ行き
誰も案内せず
僕は紐をほどき
袋をあけてクッキーを食べた
できたてのクッキーは、微熱と僕の愛情が籠もっていて美味しかった
ほっこりと甘く
長く噛むと終わりのほうで熟れた栗の味がする
もう少し噛むと、奥のほうで純粋な糖の味に変わる
その最も原始的な味が、舌の端の顎の付け根に染みたあとに
元のクッキーの味が戻ってくる

それはとても美味しいものだった
とても美味しいクッキーだった
緩やかに退いていった微熱と僕の愛情が籠もっていて、
そのクッキーはとても美味しかった



本当に美味しいクッキーは、ついに、気が付いたときには、袋の中からその姿を、一つ残さず消してしまっていた

黄色かったあなたの部屋は今、
真っ黒になった



自由詩 月視 Copyright チグトセ 2007-04-20 17:52:01
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