2017 01/07 22:49
ハァモニィベル
>>311 蛾兆ボルカさん
人知れず死んでいった切ない人たちの〈歴史〉というのも、ありますね。
その方が数はずっと多いに違いありません。
遊女に関しては、「投げ込み寺」という名称そのものから、
その哀切さが滲んできます。
医学のために、解剖実習の教材として文字通り身を捧げる「献体」というのがありますが、
その第一号(明治2=1869年)は、遊女でした。
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【距離感】について
例えば、自分のことの場合。体験したことは、距離感ゼロで書けそうですが、
じつは、そうはいかず、やはり「書く」という場合は、対象化するために、一定の距離を
置くことが必要になりますね。
カルヴィーノという伊の作家が、ハーヴァードの学生を相手に、その辺をうまく伝えていますが、
氏曰く、実体験というのはゴルゴンの首のようなもので、鏡の盾にいったん映して見なければいけない、
もし、直に見てしまったら最後、重い石と化してしまい、まったく書くことができなくなるだろう、と。
つまり、生々しい自分の痛みこそ、むしろ、距離を取らないと、適切な表現に固定できない、という
ことでしょう。
ただ、他人のように距離をとったとしても、やはり、自分の事ですから、痛みも分かるし、事情も汲める
ものだから、距離をとりつつも手は離さないわけです。そのあたりに、程よい【距離感】が生まれる、と
思います。
一方、他人ごと、というのは、元々遠距離にあるものですから、そのままだと、対象をショーケースの外から
眺めてるような語り手の目線が、読者に伝わります。ショーケースに並んだものには死んだ印象しかない。
多少なりとも、対象の事情を汲んだり、痛みを察してやる必要があるんじゃないだろうか、自分の事のように
手を離さないでいてやること、(それは理解力ということですけれども)それが、読者に伝わると、退屈はしない。
と、そんな感じに(わたしは)感覚してます。
現代アートを志向して、その辺を破調させるのも、戦略としてはあるでしょうが、そういうのは結局、ヘタな作品
と区別がつかないのではないでしょうか。多分、二十二世紀以降の読まれる古典にはならないでしょう。
(以上余談でした)
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