【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[284]
2016 12/29 11:28
ハァモニィベル

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*歴史文学について*

今回は、(観念的議論)でなく、(逸話)を具体的に書いてください、
といいましたが、まあ、観念的である<歴史文学に関する議論>にもまた、
「歴史」があります。ということは、自ずと次のような逸話として此処に
書けることになります。

まあ、そんなことは、「詩」に関係ないじゃないか、と謂われるかもしれませんが、そう謂うひとには、
詩もかつては叙事詩(歴史物語)であった、ことを、思い出していただければ、と思います。

さて、歴史文学というと、
たいてい取沙汰されるのは、結局、「史実と虚構」の問題ということですが、
抽象的にああじゃないこうじゃない、と騒いでみても、問題はあいまいになるばかり
と感じるのは私だけではないでしょう。ところが、以下の様に、具体的な逸話の中で
眺めると、問題は明瞭であるような
気がするのは私だけでしょうか。

それでは、ちょっと覗いてみましょう。
どういうお話かというと、それは、――
 歴史小説 『蒼き狼』をめぐる、井上靖と大岡昇平との論争のおはなしです。

井上靖は言うまでもなく、ジンギスカンを素材にした『蒼き狼』の作者であり、大岡昇平は、
当時の『蒼き狼』大絶賛の風潮に、ちょっと待った、と苦言を呈した作家です。

 大岡昇平の批判は例えば、
ジンギスカンが即位式で述べる「 『狼』演説 」 を発明したのは、作者の才能としてべつに悪くはないが、それは―
>中世の蒙古人の心をありのまま伝えていないのはたしかである
というものでした。
さらに、大岡は次のように言っています。
>小説は必ずしも歴史的事実にこだわる必要はないにしても、人間が歴史を作り、また歴史に作られるという相互関係がなければ、そもそも人間を歴史的環境におく必要はないわけである

 「借景小説」という言葉がありまして、その定義は、「背景だけを過去に借りて、そこに現代人の心理をもつ人物を自在に活躍させるタイプの歴史小説」というわけですが、
 いってみれば、歴史風小説とでもいうべきでしょうか。
 大岡昇平はそれが大絶賛されることに違和感を示したわけです。

この批判に対する井上靖の答えは、
>小説家の歴史に対する対い方は、歴史学者の解釈だけでは説明できないところへはいって行き、表面に見えない歴史の一番奥底の流れのようなものに触れることではないか。〔自分の作品がそれに成功したとは言わないが〕それを意図したものだとはいえると思う

というもので、至極あいまい・無反省な印象を与えるものであったからでしょうか、
「ランケ以来」の歴史家もまた、『解釈』に終始しているわけではなく奥底の流れを探求しているのだ、
として、大岡昇平からつぎのように止めを刺されました。
>珍妙な『解釈』を自慢して、実はお話を売っているのが、歴史小説家なのである

大岡昇平の先の批判に対して、もし芥川龍之介だったら多分、自信をもってこう答えた筈なわけです。

今僕が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、〔いま現代の日本の出来事としては、不自然で書きこなすのが大変である〕僕の昔から材料を採つた小説は〔この不自然な感じを読者に与えてテエマを「犬死」させない為の必要に〕迫られて、〔・・・〕舞台を昔に求めたのである。〔・・・〕所謂歴史小説とはどんな意味に於いても「昔」の再現を目的にしてゐない・・・


まあ、結局、
出来上がった作品に、(感動をともなうだけの説得力があるかどうか)なんだろーな、と
(私は、)思います。


というわけで、逸話を私テイストで整理してみましたが、
皆さんも、何か、歴史に絡んだ面白い話があったら、ぜひお願いします。

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